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ブックマーク / okdky.hatenadiary.org (7)

  • 2010-09-22

    岡田希雄 歴史と國文學 26(6): 9-21 (1942) 字鏡集は、部首類辭書としては、慶長の刊倭玉篇までのものゝ中では最も大部のものであり、字鏡集以前の辭書たる新撰字鏡、世尊字字鏡、類聚名義抄に比しては最も日化したものである。しかも異體の字を註記し、韻を示すなどの點では、古和玉篇や刊倭玉篇などよりも高級である。其の部首を天象部・地儀部・植物部・動物部・人倫部などゝ云ふ樣に意義分類して居るが、これは無秩序に部首を並べたのでは、某と云ふ部首が何の册に存するかを知るに苦しみ不便であるのを考慮して、檢索に便利であるやうに意義分類したのであつて、字彙・正字通・康熈字典の如き畫數順に並べるのに比べては劣るが、説文式に漫然と並べてあるのに優る事は云ふまでも無い。尤も其の説文でもところ〴〵に意義の似た部首を並べて居る事が指摘できる。だが漢土の部首分類辭書で意義分類せられて居るものとして

    2010-09-22
  • 2008-10-09

    新刊紹介 岡田希雄 國語・國文 4(5): 90-103 (1934) 漢字の辭書としては、形類、音類、義類の三種類が存するのだが、其の中で形類に屬するもの、即ち所謂部首分類式辭書〈字書と書くの正しいのだが、辭書ですましておく〉としては説文以後如何なるものが出來て、明の字彙を經て康煕字典と成るに至つたかと言ふ事、即ち形類字書史は、殘存する字書が乏しいために内容が極めて貧弱であり、湮滅したものを入れようとしても藝籍志や小學考の類に見えた説明が粗笨であるために、はつきりした事は判らないやうだ。が然う云ふ中に於いて、説文の系統を引いた玉篇の一書のみは、大同九年三月に出來て以來、樣々な變遷を經て、元の支那では原が亡び乍らも、原形とは大いに變じた大廣益會玉篇として殘り、是れの刊としては宋、元、明、清の間に何程も新版が出來たし、飜へつて我が國に於いても、何時比傳はつたかは知らぬが、少くとも奈

    2008-10-09
    kuzan
    kuzan 2009/02/06
    [電子テキスト[語学史]http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/okai/
  • 「國語學講習録」に就いて - 岡田希雄を入力するはてダ

    新刊紹介 岡田希雄 國語・國文 4(7): 89-91 (1934) 昨年〈昭和八年〉の七月二十六日から二十九日へかけての四日間、長野縣松市で、松女子師範學校を會場として、信濃教育會東筑摩部會主催の國語學講習會が開催せられ、柳田國男氏、新村出、小倉進平兩博士、金田一京助助教授の四氏が講師として、造詣と蘊蓄とを、僅かな時間の中に於いて傾けられたのであるが、其の講義全部の筆記を講習會當事者が公刊したのが「國語學講習録」一卷である(講義筆記の原稿は柳田氏のもの以外は、各講師により、或ひは校閲せられ、又は書き改められもした由である)。今書に就いて、其の演題と頁數とを擧げると左の如くである。〈一頁十六行、一行五十字詰〉 國語史論(四十五頁分) 柳田氏 〈規範的對歴史的〉日文典(四十一頁分) 新村博士 日辭書の現實と理想(二十六頁分) 新村博士 國語學に於ける朝鮮語の問題(三十頁分)小倉博士

    「國語學講習録」に就いて - 岡田希雄を入力するはてダ
  • 2008-07-14

    d:id:Okdky:20080713ヨリ続ク。 書所見の鎌倉時代語彙の例示は是れ位で止めて、最後に、民俗、子供の遊び、社會状態などに關する記事を擧げて見る。云ふまでも無く書の性質として、是れらのものは至つて少いのである。 ○次、小童部〈ノ〉遊戲〈ニ〉、ヒ□クメ〈ト〉イフ事アリ、如何、コレ〈ハ〉オカシキアダ事ナレドモ、實詮アル事也、地藏菩薩〈ノ〉比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷〈ノ〉四部〈ノ〉弟子〈ヲ〉御コシ〈ニ〉トリツカセテ、ハグヽミスクヒタマフヲ、獄率{マヽ}〈ガ〉ウバイ、トラム〈ト〉スルマネナリケリ、トリヲヤガトラウ〳〵ヒフクメトイヘル〈ハ〉獄率〈ガ〉トラウ〳〵比丘・比丘尼〈ト〉イヘル義也、ソレヲオシミヲヤ〈ガ〉サリトモエトラジトテ□□□□〈四字分程不明〉地藏薩埵〈ノ〉罪人〈ヲ〉オシミ給ヘル〈ヲ〉マネベル也、カミ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ、シモ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ〈ト〉イヘル〈ハ〉カミ〈ヲ

    2008-07-14
    kuzan
    kuzan 2008/07/13
    語源辞書史略説
  • 2008-07-05

    岡田希雄 國語・國文 5(11): 81-106 (1935) 徳川期に於ける語原解釋の主なる主義は、通畧延約説と音義説と、擬聲説とであるが、此の中鈴木朗の擬聲説は、今日から云へば最も注意すべきであるが、實際としては最も勢力無く、〈音義説が朗の説より出て居るとの解釋は自分は取らない〉その悉曇の字義字相説の系統を引く音義説は、多田義俊當時より存しながらも、徳川末期に至り勢力を得たのである。是れに反して通畧延約説は、實際上は既でに記紀風土記の地名解釋や古語拾遺の訓註にも見え、其の後平安朝末以後の歌や物語に關する註釋書の類にも散見して居り、徳川期に成ると、契沖・貝原益軒・新井白石の如きも、程度の差こそあれ認めて居ると云ふ可きだが、眞淵が語意考で纏めてより後は、其れが眞淵により纏められたと云ふ點で、鐵別的に行はれ、ツバクラが鷹と成る類の弊害を齎したのであり、通畧延約と云へば徳川期の眞淵以後の語原解

    2008-07-05
  • 2008-05-04

    國語・國文13(4): 82-86 (1943) 題目 發表ノ年次 發表ノ場所 總頁數 俊頼無名抄の著者と其の著述年代(上・下) 大正一〇・六、七 藝文 44 瑣言(上・下) 大正一〇・七、十二 〃 3 類聚名義抄に就いて(一)―(十二) 大正一一・二、四―七、九―十二。大正十二・一―三 〃 216 高山寺類聚名義抄攷(上・下) 大正一二・四、五 〃 46 觀智院類聚名義抄攷(上・下) 大正一二・六、七 〃 40 西念寺類聚名義抄攷(上・下) 大正一二・九、十 〃 33 鎌倉時代末期の子守歌 昭和二・一 歴史と地理 15 和泉式部と藤原保昌 昭和二・二、三、五、六、八 〃 51 藤原重家集解説 昭和二・一、二 藝文 45 重家集と玉葉 昭和二・十二 國語國文の研究 4 金葉集攷(一)―(八) 昭和二・四、五、八―十二。昭和三・一 藝文 177 雀羅草堂雜記 昭和二・七、八、十、十一

    2008-05-04
  • 岡田希雄を入力するはてダ

    岡田希雄 藝文20(4): 249-277 (1929) 権律師仙覚の万葉集研究は、其の文校訂事業が画期的であつたと同様に、註釈即ち仙覚抄の著述も、従来の諸研究の結果を集大成して、其の晩年に於ける蘊蓄を傾倒したものである故に、亦画期的なものであり、代匠記以前に於ける最も優秀なものであつた。其の学術的価値は四百二三十年の後に新註、即ち契沖の代匠記が現はれ引き続き種々の業績が現はれるに至つたので、仙覚抄の説そのものは、次第に崩れ行く傾向のあるのは事実であるが、しかし万葉集研究史上に於ける仙覚抄の価値は永久不変、代匠記と対立するものなる事は今更云ふ迄も無い。 仙覚抄は第一巻の終りに「文永六年二月二十四日記之訖、仙覚在判」とり、巻二、六、八、十三十五、十八等にも、其れ〴〵成立の年月日が明記せられてあり、最後の巻二十の終りには「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所注之了、権律師仙覚在判」

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    kuzan
    kuzan 2008/03/01
    新譯華嚴經音義私記倭訓攷
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