コバルトーレ女川 泣けました・・・
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女性警官14人を含む兵庫県警特別派遣部隊「のじぎく隊」(20人)が17日、東日本大震災の被災地宮城県へ向け出発する。避難所を巡回し、被災者の生活相談や心のケアにあたる。阪神大震災(95年)でも、避難所で被災者に寄り添う支援を続けた。16年前のメンバーで、今回の派遣にも加わる少年捜査課の下村政美巡査部長(37)は「(被災者は)疲れがたまり、将来への不安が大きくなっていると思う。話を聞くことで少しでも役に立ちたい」といたわる。 下村巡査部長は、阪神大震災当時、警察官になってまだ3年目だった。発生1カ月後、「のじぎくパトロール隊」として神戸市須磨区の避難所を回り始めた。「水、電気がこない」といった生活の苦労から、「集団生活のリズムになじめない」と漏らすお年寄りらのの相談も受け、支援を続けた。 話を聞く中で葛藤(かっとう)もあった。「自分は話を聞くだけで何もできていない。これが警察官の仕事なのか」
子どもたちの合図で紙飛行機を飛ばす被災者ら=宮城県名取市の館腰小の避難所で2011年4月3日午後8時41分、小林努撮影 届け、僕らの復興への思い--。東日本大震災による津波で大きな被害を受けた宮城県名取市の市立閖上(ゆりあげ)小の子どもたちが3日夜、避難先の市立館腰(たてこし)小体育館で開かれたコンサートの最後に、メッセージを書いた紙飛行機を飛ばした。地震直後、閖上小の教室では、泣いている女子を励まそうと、男子が紙飛行機を投げ、笑顔を取り戻した。「みんな元気に頑張ろう」。思いを込めた紙飛行機が避難所にも笑顔を届けた。 地震直後、同小3階にあった6年1組の教室には、低学年の児童も避難してきた。「怖い」。女子が泣いていた。「僕たちに何かできないか」と1組の男子9人が話し合った。「紙飛行機の羽にメッセージを書いて飛ばそう」。斎藤開君(12)が、紙飛行機を作って教室後ろのロッカーにしまっているのを
延々と続く瓦礫の山。地震の前には、壊されたすべてのモノに持ち主がいて、温かい生活の一部を支えていただろう。それが今や、無機質なゴミと化し、その多くは持ち主と再会することなく処分されていく。 全国でも有数の良港として知られる宮城県の気仙沼。港には多くの船が水揚げのために停泊し、近隣は市場や加工場がひしめき合って建っていた。それがすべて、津波に押し流されて消えた。 出航を告げる船の汽笛、魚市場に響き渡る威勢のいい競りの声、缶詰工場の機械が刻む小気味良いリズム音――。多くの人々の喧噪に包まれていたその場所は、今、無音の空間が広がっている。 覚悟はしていた。だが、テレビの映像からは伝わってこなかった凄惨さが、目の前に広がる。何かが違う。現地に赴いて呆然と立ち尽くしながら感じた違和感は、静寂さだった。テレビでは、リポーターが現場を伝える声が流れている。だが、実際の被災の現場は、ここまで無音だったのか
「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧
3月29日、大阪・長居スタジアムに『ベガルタ応援歌』が響き渡った本当の理由 投稿日時:2011/03/31(木) 13:15 [写真]=足立雅史 「スタンドから手渡された時はちょっとビックリしたけど、僕が持って歩いたら宮城県の人が喜んでくれるかなと思ったんです。それが今日一番の目標でしたから」 3月29日に行われた復興支援チャリティーマッチの終了後、場内を回る仙台MF梁勇基が抱きしめていたのは、チームマスコットであるベガッ太くんの巨大なぬいぐるみだった。被災地、そして被災者を代表する気持ちを持って試合に臨んだ彼にとって、この試合を通じて支援の手を差し伸べてくれる日本や世界に対して感謝の意を伝えることが大きな目標だった。だが、やはりホームタウンで苦しむ人々に力を与えられたらという想いを心に秘めていた。 そしてスタンドから梁勇基にぬいぐるみを手渡したのは、仙台で試合後にパフォーマンスをスタ
学校全体が大津波にのみこまれた大川小学校=22日、宮城県石巻市釜谷、伊藤恵里奈撮影学校全体が大津波にのみこまれた大川小学校。2階まで土砂が流れ込んだ=22日、宮城県石巻市釜谷、伊藤恵里奈撮影がれきの中から発見されたランドセルやかばんが積み上げられていた=22日、宮城県石巻市釜谷、伊藤恵里奈撮影長女の未空(みく)さん(6年)と長男の択海(たくみ)君(3年)を亡くした母親の佐藤すえ子さん。遺留品の中から未空さんの写真をみつけた。「あと1時間津波が来るのが遅かったら、車で迎えにいってあげていたら、地震が起きたのが休日だったら、助かったのにと悔やみきれない」と話した=22日、宮城県石巻市釜谷、伊藤恵里奈撮影 北上川沿いに立っていた宮城県石巻市立大川小学校。津波は川をさかのぼり、子どもたちをのみ込んだ。「あの日」から、2週間。多くの児童と教員を失った校長は、子どもの姿を求めて避難所を回り、全壊した
「鈴木さんの機転がみんなを救った」と話す東北学院大の宮城教授。本来の避難場所の寺は津波が襲い、がれきの山になっていた=宮城県七ケ浜町機転を利かせて60人を救った鈴木さん(右)と防災活動を指導した東北学院大の宮城さんは再会を喜んだ=18日、宮城県七ケ浜町 東日本大震災で津波に襲われた宮城県七ケ浜町で、自主防災組織のリーダーの機転が60人の命を救った。県の想定を超す大津波の到来をラジオで知り、指定の避難場所から住民をさらに高所に避難させ、危機を脱した。 「先生、本当に先生のおかげだぁ」 七ケ浜町花渕浜地区の自主防災組織リーダー、鈴木享さん(57)は、震災後に再会した東北学院大の宮城豊彦教授を抱きしめた。 鈴木さんら住民は、町内に住む宮城さんの指導で避難場所を決めるなど、防災に取り組んできた。宮城さんは津波防災の研究で知られる。 高齢者の多い集落では、地震後の長い移動が難しい。だから、
ユース選手 人命救助活動についてご報告 ベガルタ仙台ユース所属のDF 藤澤恭史朗選手(15歳 東松島市立矢本第二中学校3年生)が 3月11日の震災時に人命救助を行ったことをご報告いたします。 藤澤選手は、地震が発生した時に外出先から急いで東松島市の自宅に戻る途中、東松島市付近にて津波に流されてしまい必死に助かろうと頑張っていたところ、後方から津波で流されてきた親子(母子)に気がつき勇気をもって右腕で子供、左腕で母親をつかみました。 なんとか、近くにあった軽トラックの屋根に登り難を逃れましたが、水かさが増し胸まで浸水したので、子供を肩車し、左腕で母親をかかえたままの体勢で長い時間耐えていました。時間が経ち徐々に水かさが減ったので無事おふたりを避難所へ送りとどけ、人命を救出することがでました。 藤澤選手も無事避難することができ、現在は避難所で生活をしています。
× 3855 この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。 564 154 64 シェア 以下に、会見での一問一答を全文掲載する。 サンドウィッチマン一問一答 伊達:僕らは東北放送という仙台のテレビ局の番組のロケ中だったんですけれども、スタッフの指示が的確だったため山のほうへ逃げまして、そのおかげで奇跡的に助かったと思っております。僕らの地元がこんなことになっておりまして、諸先輩方、(島田)紳助さんはじめ、(笑福亭)鶴瓶師匠、(間)寛平師匠、京本政樹さんとか渡辺徹さんとか、いろんな芸人の僕らの先輩方が「お前ら先頭切ってアクション起こせ」ということで、今回こうやって義援金をみなさんにご協力いただこうと、会見させていただきました。 ──どのあたりの海岸で、どのあたりに逃げたのですか? 伊達:気仙沼湾です。ロケが終わってロケバスに乗り込もうとし
三陸の旅を終えて以来、虚脱状態が続いている。 山形が停電から復旧し、テレビやネットで情報を追い続けていたが、この世のものとは思えない津波の映像に震え、ぶらぶら歩いていた釜石の商店街が波に呑みこまれ、あとはもうひたすら恐ろしかった。 地震当日の午前中は、宮城県松島のカフェで原稿を書いていた。午後に山形で用があり、久々に帰郷したところで地震に遭った。その用事がなければ、「いいところだな」と、太平洋岸の町をうろついていたと思う。 最近は、ずっと旅をしていた。 三陸をうろつく前の週は、福島の郡山やいわき市に。海を見ていると、原稿執筆のモチベーションが維持できるという理由で、今年の冬は沖縄や福島、仙台、三陸をぶらつきながら、わりとストイックに原稿に向かっていた。旅をしながら、同時にカンヅメでもあったのだ。 プライベートな空間では原稿がまったく書けないので(個室に入るとロクなことをしない)、家には帰ら
このゴールデンウィークは、仙台でダダカン師にお会いして来ました。拙著『篦棒な人々』で訪仙して以来、たぶんこれが6度目の訪問になると思います。 今回はドキュメンタリー『グワシ!楳図かずおです』の監督である伊藤弘二氏と、女子大生時代からダダカン師の大ファンで、毎年年末年始を鬼放舎(ダダカン邸)で過ごされるという日本一ディープなダダカンファンである、ぽちょむきんさんも一緒でした。今回掲載した写真とyoutubeの動画は、すべて伊藤弘二氏撮影のものです。 ↑篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1) ダダカン師については、拙著『篦棒な人々』(河出文庫)に書いたほかにも、「たけくまメモ」でも何度かエントリにしましたので、そちらをご覧ください。日本における「全裸行動芸術」の開祖的存在であり、60年代の「前衛芸術」を語るに当たっては欠くことのできない偉大な芸術家であります。 htt
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