工事犠牲者の慰霊碑 1900年(明治33年)7月25日に開業した名古屋-多治見間の鉄道敷設工事において、春日井市地内の予定路線は、当初、下街道沿いに内津峠を越えて多治見に至るルートと定められ、後年に整備された国道19号バイパスとほぼ同じルートであった[6]。鉄道省は1893年(明治26年)にこのルートを測量し、内津峠にトンネルを1つ掘ればよいだけであることを確認していた。しかし、そのルートにあたる坂下地区では、養蚕を主産業とする農家が多数あったことから汽車の煙が蚕の生育に悪影響を及ぼすことを懸念する声や、鉄道が通ることで下街道の交通が衰えることを憂いた住民の反対が非常に強くあり、鉄道省はルートの変更を余儀なくされた。そこで新たに候補となったのが、高蔵寺から多治見へ抜ける玉川線のルートで、のちに愛岐トンネル群と呼ばれる14のトンネルを必要とする、費用のかさむ案であった。他の候補もなかったわけ