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ブックマーク / nix-in-desertis.blog.jp (170)

  • nix in desertis:受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2017 その2(早大残り・国公立)

    その1から。こちらは早大の残りと,国公立。国公立は,解いたものは全て載せているが,実は某所の更新がないことで千葉大の問題が未入手なので,荒れていた場合は書籍版に収録します。 国公立はいつもとは違う顔ぶれになっていて,意外性が高い。 17.早稲田大 商学部 <種別>悪問・難問 <問題>1 問B 下線部Bについて(編註:(中国の戸籍人口は)2世紀に入るとほぼ回復した。),その理由として妥当なものはどれか。 1.長安遷都によって渭水盆地の開発が進んだ。 2.鮮卑の服属によって西北地域の政治状況が安定した。 3.治水工事技術の発達によって黄河の氾濫がなくなった。 4.山東地域や長江以南の開発が進展した。 <解答解説> 商学部は2年連続で中国史からの難問・悪問の嵐であった。その中で収録対象としたのは2問であるが,全体的に難しかった。前年と担当者が変わらなかった上に反省もしなかった,ということか。さて

  • nix in desertis:受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2017 その1(上智大・慶應大・早大途中まで)

    はじめに 今年は諸事情あって「そもそもやらない」すら視野に入れていたのだけれど,期待もあることだろうし全くやらないというのもダメだろうと思い直して,縮小版で更新することにした。問題の選定だけは済んでいるので,番号が飛んでいるのはまだ作業が終わってないんだなと察してもらえればと思う。ただ,最初から諦めていたおかげでかえって時間ができて,この2月は何年かぶりにのんびりしていた。Twitter等を見たら普通にゲームしてたのがわかるが,あれはこういう事情で気を抜いていたのが理由だったりする。完全版は2巻に収録する(2017年中に出るのは確定しました)。 ・収録の基準と分類 基準は例年とほぼ同じである。 出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数正解が認められるもの。 悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。 → 歴史的知識及び一般常識か

  • nix in desertis:小田野直武と秋田蘭画

    これもとっくの昔に会期が終わっているが,サントリー美術館の小田野直武展。小田野直武は江戸後期に活躍した秋田藩出身の画家で,『解体新書』の挿絵を担当したことで有名な人物である。この展覧会では小田野直武を中心に,彼が滞在していた当時の江戸の蘭画受容やその秋田への伝播,藩主を通じた藩同士の文化交流等に焦点が当てられた。 驚くのは小田野直武の早熟っぷりで,24歳の頃に,秋田藩に鉱山調査に来た平賀源内の紹介で江戸へ。そこで杉田玄白らと知り合って,翌年には『解体新書』の出版に携わっているという。蘭画に格的に習熟したのはその後になるから,『解体新書』がきっかけだったと言えよう。今回の展覧会では江戸に行く前の頃の作品も展示されていたが,普通に上手い狩野派である。上手いには上手いが,ここから『解体新書』に抜擢された理由は人のつながりとしか言いようがないのだな,と思う程度には特徴がなかった。ともあれ,そこか

  • nix in desertis:日本の戦国時代に関するifいろいろ

    ・戦国時代の到来を防ぐにはどうすればよかったのか(歴史的速報@2ch) 戦国時代とは何かと言えば,中央の実力と権威が失墜してしまっていて,法令の効力の届く範囲が極めて縮小しており,地方で土地と軍事力を持った中小勢力が自立し,その上相争っている騒乱状態である。 スレ内で指摘されている通り,応仁の乱勃発時点ではすでに戦国時代に入りかかっているので,応仁の乱だけを原因にはできない。室町幕府が崩壊したのは幕府体の経済基盤が小さすぎ,有力守護大名同士の闘争を制御するだけの実力を欠いたからという点に起因する。つまるところ室町幕府と守護領国制という構造自体に欠陥があった。当時の人々も気づいてはいたし,義満や義教はなんとかしようとしていた。一番可能性があったのはやはり義満の時代で,彼が明徳の乱・応永の乱等の過程で足利氏の直轄する領国や権益を増やせていれば,展開は大きく変わっていたかもしれない。 そうした

  • nix in desertis:前転ならぬ禅展

    東博の禅寺展に行ってきた。禅とは鎌倉時代から江戸時代前期に渡って日文化に多大な影響を与えてきた要素であり,特に室町時代の文化となると禅抜きにはほとんど何も語れない。ひどく大風呂敷を広げたな……と思ったらその大風呂敷通りの展覧会で,上手いこと何とかまとめてしまっていた辺りさすがは東博の企画展である。 前半は禅の歴史のお勉強で,達磨の中国渡来,そこから禅宗が芽生えて臨済義玄により臨済宗が開かれる。さらに中国で多様な禅が開くが,その中で栄西が臨済宗を日に導入し,日でも禅が普及していく過程を,物品を使って説明していた。そもそもこの展覧会が開かれたのは臨済義玄没後1150周年・白隠禅師没後250周年だからだそうで。中国の方の展示はさすがにそこまで充実していたわけではないが,雪舟の「慧可断臂図」が見れたので良しとしようと思う。中国の伝説的な禅僧紹介掛け軸シリーズがけっこうおもしろくて,キャプシ

  • nix in desertis:「真田丸」

    非常に珍しくも,大河ドラマを見ていた年であった。見るようになったきっかけは,丸島和洋先生のtweetである。この歴史考証に関するコメントとセットで見れるなら,確かに面白かろうと思って見始めた。 私は三谷幸喜のそれなりのファンである。過去の映画は大体全部見ている(最新作の『ギャラクシー街道』だけ見ていないが,あまりの酷評っぷりに見る勇気がない)。『笑の大学』か『ラヂオの時間』あたりは人生で一番笑った映画ランキングベスト5に入れている。にもかかわらず今回ちょっと敬遠していたのは,『ギャラクシー街道』は無関係で,『清州会議』がぶっちゃけて言うと割りと微妙で,この人にちゃんとした史劇が書けるんだろうかという疑問が先立ったためである。結果から言うとそれは杞憂だったというよりも,三谷幸喜は明らかに『清州会議』の二の舞は避けていた。「真田丸」は時折「コメディ寄りすぎる」という批評を受けていることがあるが

  • nix in desertis:「ロボットは東大に入れるか」成果報告会 in 2016(11/14)レポート

    昨年のものはこちら。また,朝日新聞によるまとめ・結果一覧はこちら。 以下は聴講の記録だが,大部分は昨年と解法などが変わらないため,文章短縮化のため変わらない部分は「昨年と同じ」と同じとして省略するのでご了承願いたい。 昨年はマーク模試・東大模試ともに駿台・ベネッセのものであったが,今年はマーク模試がベネッセ,東大模試が代ゼミのものになった。東大模試は一昨年まで代ゼミのものだったので,出戻りになった形になる。私自身風の噂で聞いただけなので話半分として書くが,駿台とは何やら揉めたらしく,代ゼミに戻ってきたそうだ。まあ,そもそも駿台の東大実戦は配点がおかしいので,河合の東大オープンか代ゼミの東大プレを使うのが無難ではあろう。 [解法についての教科全般の話] ・例によって,OCRで直接文章を読み取って東ロボくんに流し込む,というのは未実装。ほとんどの科目は問題文をXMLに書き下すところまでは人力。

  • nix in desertis:『黄金のアデーレ 名画の帰還(原題:Woman in Gold)』

    帝政末期のオーストリアの画家グスタフ・クリムトの代表作《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》は長らくウィーンのベルヴェデーレ美術館に飾られていた。しかし,作はナチスがオーストリア併合(いわゆるアンシュルス)の際にユダヤ人の裕福な家庭から強奪したものであり,ベルヴェデーレ美術館に寄贈したのもナチスであった。しかも敗戦後の混乱によって元の所有権が有耶無耶になったまま,20世紀末(1998年)に至る。そこで,アメリカに亡命していたアデーレの姪マリア・アルトマンがオーストリア政府を相手取って訴訟を起こした。無謀と言われたこの訴訟は意外にもマリア・アルトマンの勝訴に終わり,最終的に2006年,オーストリア政府との間で調停が結ばれて,この名画はアメリカに移ることになる。現在はマリア・アルトマンが競売にかけて,購入した人物の持つ画廊に展示,公開されている。競売でついた価格は1億3500万ドル,当時の

  • nix in desertis:『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』入不二基義著,ちくま新書

    書は大学入試に使われた哲学の現代文を使って,哲学的な考察を行うというコンセプトのである。そこには様々な「誤読」が介在する。すなわち,出題者自身が文を読解できておらず,したがって全く頓珍漢な設問になっているもの(第1章)。出題自体は適切であったが,内容が高度すぎて予備校の解答速報や参考書でさえ適切な読みができていないもの(第2章)。書の筆者である入不二氏自身がある種の誤読をしてしまい,文章の意味を今ひとつとれなかったもの(第3章)。そして文自体に矛盾を抱えており,結果的に複数の読みが成立しうるもの(第4章)。この4章で構成されており,「入試の現代文には様々な誤読が介在されてしまう余地がある」からこその『哲学の誤読』という書名になっている。 私が書を読もうと思った理由はほとんどの読者にはお察しの通り,書のコンセプトの一部がまんま拙著の現代文版であり,事実,受験現代文をメッタ斬りに

  • nix in desertis:『高慢と偏見とゾンビ』

    イギリスの傑作古典小説『高慢と偏見』になぜかゾンビをつっこむという,どう考えても作者の頭がどうかしているパロディ(マッシュアップ)小説映画化。原作の『高慢と偏見』が好きだったし,どうB級映画化したのかが気になったので見に行ったら,予想通りの面白さであった。 ストーリーの基ラインは『高慢と偏見』の通り……と言いたいところだが,ゾンビが混入されているせいで後半は大きく捻じ曲げられていくことになる。というか前半も,筋から外れていないだけで,原作では優雅なお茶会で姉妹が語り合うシーンがカンフーの修行しながら語り合うシーンに変わっているし,何よりダーシーが高慢さを捨ててリジーに愛を告白する(が,リジーの偏見により振られる)という原作屈指の名シーンもなぜかカンフーバトルになるというぶっ壊し具合で(私が見た劇場はここで観衆一同大爆笑であった),この映画最大の“加害者”はゾンビというよりカンフーだっ

  • nix in desertis:イスラーム型の民主主義は成立しうるか

    ・中東で民主主義が定着しない「当の理由」 〜イスラームをめぐる2つの問題について(賢者の知恵 | 現代ビジネス) 私の中の問題意識にありつつ案外と他の人が指摘している場面を見ないので,この記事で指摘されているのを読んでちょっと驚いてしまった。近代ヨーロッパの発明とは民主主義と自由主義(基的人権の擁護)は両輪であって,片方が欠ければ長期的には腐敗するということではなかったか。啓蒙専制や自由主義的専制は,夢はあれど時代の徒花であろう。 そして,イスラーム教という宗教自体に民主化を阻害する要因があるのではなく,社会の世俗化がなされていないことが大きな要因である,という記事の主張には同意する。基的人権が守られるには明確な政教分離とまではいかなくとも,人権と宗教的価値が衝突した時に人権が優先されるという社会の風潮は最低限必要で,それが達成される程度には世俗化が必要不可欠になろう。イスラーム的

  • nix in desertis:『シン・ゴジラ』感想

    もはや言い尽くされているので,2点だけに絞って素直な感想を書いておく。 まず,作は「巧妙に脱色された透明かつ健全なナショナリズムを非常に喚起される映画」だと思った。偽悪的な書き方をしたのでこう書くとめちゃくちゃけなしているように読めるが,実際のところは正反対で,これは私的に最大限の賛辞である。何より,ナショナリズムというものを巧妙に脱色することが難しい。スポーツにおけるナショナルチームの活躍・応援や大規模な自然災害に対する復興がこれに近いものがあるが,前者は興味が無い国民を阻害する点で必ずしも規模が大きくなく,実際に戦うのは数人から十数人のプレーヤーにすぎない。後者は明確な敵がいない。すると侵略してきた宇宙人か(これは『インディペンデンス・デイ』だ),怪獣あたりが妥当な線になる。もっとも,宇宙人の場合は一国じゃなくて世界で団結しろよ,という話になりかねない。 ゆえにゴジラを出すならこれは

  • nix in desertis:2016上半期ニコマス20選

  • nix in desertis:書評:『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也著,中公新書

    書はインターネットで話題となり,再販された。私もご多分に漏れず,このTogetterがきっかけだ。 ・「まるで異世界召喚」「内政チートや」…名著「ルワンダ中央銀行総裁日記」は「ライトノベル的に面白い」という切り口に反響(Togetter) ここでの紹介はリアル世界で当に起きてしまった内政チート,という雰囲気だ。確かに,第二次世界大戦後の主権国家というものを急に“押し付けられ”,知識も技術も経済力もないが対応していかなくてはいけないアフリカ内陸の小国という究極の状況である。主人公が異世界に飛ばされたのではなく,異世界の側が現代世界に接続してしまったという方が近い。そしてまた,服部正也氏が極めて内政チートの主人公にふさわしい人物であった。内政チート物の(とりわけ異世界物)で指摘される主人公の不自然さをことごとく否定できてしまう。 ・ぽっと出の主人公(現代人)がいきなり内政を自由にできる高官

  • nix in desertis:書評:『三国志』宮城谷昌光著,文春文庫

    実はとうの昔に読み終わっていたのだけれど,書評を書くタイミングを逃したままここまで来てしまった。なにせ7・8巻の書評が3年前である。このまま9〜12巻は書評無しでもいいかとも思ったが,しかし12巻通した総評くらいは書かないと踏ん切りがつかなかったので,短くまとめておく。 しかし,3年経ったからこそ書けることもある。書の世評が落ち着いているということである。書の世評は毀誉褒貶なのだけれども,宮城谷昌光らしさという点では及第点であるが,三国志ファンの視点からすると物足りない作品とも言えるかもしれない。以下の3つの記事・Togetterは,当時の三国志ファン界隈の雰囲気が非常によくわかるものになっている。あえて言えばTogetterだけでも十分かもしれない。 ・三国文化のバトンを持たずに疾走した有能なランナー宮城谷氏について(Togetter) ・『三国志読』の感想ツイート(いつか書きたい

  • nix in desertis:中国麻雀を打ってみた感想

    友達中国麻雀(麻将,国際麻将)を打ってみたので,その感想。 中国麻雀のルールはWikipediaなりニコニコ大百科なりを参照にしてほしいが,日麻雀との違いを端的に言えば ・リーチがない。 ・ドラがない,というか王牌がない。(ただしドラに相当する物はある。日麻雀に比べて効力は弱いけど) ・フリテンがない。 ・い下がりという概念がなく,門前役も少ない(平和でさえ門前役ではない)。当然喰い替えも禁止にならないし,むしろ非常に重要な戦術になる。 ・ツモ上がりが非常に強い。簡単に言えばロン上がりの3倍近い点数がもらえる。 ・符がない代わりに,符も役扱いになる。カンチャンやペンチャンも役(一番安い1点役だけど)。なんと絶一門も1点役である。 ・符が役扱いになるように役の数が多い(日が約30種に対して約80種)。逆に言って,役が80種もあるからいって怯むことはない。 ・1翻縛りに代わって,

  • nix in desertis:自分ではソシャゲしてませんが

    ・商業エロゲが衰退した原因を分析する(Yahoo!知恵袋 ) → ここで言うエロゲとはソフ倫を通した商業エロゲに限定されることに注意。記事中にある業界内の問題はけっこう疑問だが,業界外の問題はかなり同意できる。エロゲが一度頂点を取った結果として,エロゲ・ギャルゲ的手法が他ジャンルでも使われるようになって埋没したような気はする。自由で斬新な表現が尊ばれたエロゲ界隈であったが,ユーザー側は1プレイに恐ろしく時間がかかり,ライター側は苦労の割に儲からないというのでは,それが別のジャンルで楽しめる/できるのであれば,ユーザーもクリエイターも離れていく。表現の自由度という点においてエロゲはまだまだ魅力的なジャンルだと思うけど,それも同人エロゲが成長してきて特権的な身分でもなくなってきたのかも。 → シナリオのアイデアとスタッフさえ一通りそろえば安価に作れてしまう紙芝居という形式を得て成長したエロゲだ

  • nix in desertis:黄金のアフガニスタン

    東博の黄金のアフガニスタン展に行ってきた。企画展はある意味で展覧会の内容よりも開催の経緯の方が重要であるので,先にそちらに触れておきたい。 カブールのアフガニスタン国立博物館は1979年以後,長らく文化財破壊の危機にさらされ続け,特に1989年にソ連が撤退すると情勢が悪化した。タリバンが成長し,彼らが故意の文化財破壊を行っていたことと,内戦がカブール市街にまで及び始めたことがその原因である。実際に1990年代に,多くの博物館収蔵品が破壊されて灰燼に帰したか,略奪に遭ったとされる。しかし,博物館職員たちは極秘裏に最重要収蔵品を選び抜いて,それらを大統領官邸の地下金庫にしまいこんでいた。この行為は当時の政権はおろか,職員の家族にさえ秘密にされていたそうだ。そして米軍が進駐したことである程度安全が確保されたと判断されたため(皮肉にも“比較的安全”と判断されたのはソ連軍か米軍がいた時期なのである

  • nix in desertis:授時暦は“何の影響”を受けて成立したのか?

    受験世界史(高校世界史)の闇をほじくるシリーズ。 1.授時暦とは 「授時暦」は元朝で施行された暦で,郭守敬を中心とした科学者グループによって作成された。この授時暦の作成は,二つの理由から世界史上の特筆すべき事象とされる。 ・前近代の科学史において,最も精確な太陰太陽暦の一つであること。 ・イスラーム世界の天文学の影響を受けており,パックス=モンゴリカ下の東西交流を象徴する成果であること。 特に後者を理由に,高校世界史上でも郭守敬と授時暦は最重要項目となっている。センター試験でも出題されるし(そういえばいつぞやの出題ミスも授時暦絡みであった),各種私大・国公立大の二次試験でも出る。中でも東大は東西交流史を極めて好むため,驚くほど出題率が高い。何と2007・2011・2015年と近い間隔で,しかもそれぞれ論述の重要なファクターとして出題がある。 2.受験世界史参考書の記述の混乱 ところが,これ

  • nix in desertis:偉大なる短気:カラヴァッジョ

    西美のカラヴァッジョ展。間違いなく今年の上半期最大の企画展である。カラヴァッジョ単独で大規模な企画展が立てられること自体が極めて珍しく,というよりも私の知る限りここ10年の東京では初めてである。それもごまかしで無くきっちりとカラヴァッジョの作品が大量に展示されており,《トカゲに噛まれる少年》・《ナルキッソス》・《果物籠を持つ少年》・《バッカス》・《エマオの晩餐》など,代表作と言ってよいものが多い。よくこれだけ持ってこれたなと。かつ西美らしくカラヴァッジョの美術史的位置づけが説明され,カラヴァジェスキへの言及もなされていた。確実に見に行く価値がある展覧会である。展示数はわずか50点程度だが,ほとんどが油彩画で1点1点が大きいのもあり,十分に見応えがあった。なお,《法悦のマグダラのマリア》(今回の画像)は今回カラヴァッジョの真筆と認定されて初の展覧会展示だそうで。図録で見るとそうでもないが,実