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ブックマーク / gitanez.seesaa.net (56)

  • 自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。 そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。 創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。 創造のスタートと

  • 編集的思考でみずから解釈する、詩人のように: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 編集的に思考できる力がいま必要だ。 世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。 ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。 単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。 いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。 逆にいえば、状況を自分

  • 倫理が現実を茶番にする: DESIGN IT! w/LOVE

    倫理などというものは時代によって大きく変わる。 人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。 なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。 正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。 例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。 そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。 処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付

  • わかっていることから逃げろ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。 その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。 それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。 その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。 外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。 もちろん、そこまで完璧に

  • 見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。 アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。 アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。 これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思える

  • わかることよりも感じることを: DESIGN IT! w/LOVE

    文脈がわからなければ「わからない」。 『わかったつもり 読解力がつかない当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。 言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。 いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。 すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。 西林さんもこんなことを書いている。 文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。 既知の事柄でも、それを理解

  • 形象の力/エルネスト・グラッシ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 何年かに一度、世界の見方を教えてくれるに出会う。 6、7年前に読んだマクルーハンの一連の著作がそうだったし、バタイユの『エロティシズム』もそうだ。ユルジス・バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』やバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』などもそんなである。 そして、このエルネスト・グラッシの『形象の力』もそんなの集団に新たに仲間入りした一冊だ。 はじめのほうに出てくる「人間は〈世界未決〉である」という指摘がまず、しっくり来た。 「自分の環境に生きる」動物に対して、人間は「世界を持たない」。 だから、人間は自分が生きる世界とともに「自らを〈形成〉しなければならない」のだと、グラッシはいう。 世界を人工的に意味付けることで、自らが何者かも意味付けることが

  • 謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 未知を既知に変換すること。理解できないものを理解できるものへと移行させること。 その際には、発見あるいは変身あるいはメタファー的なジャンプが必要であると、前回の記事「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」では書いた。 未知を既知へと変換すること、それは謎めく不定形な状態に、明らかなる形象を与える行為でもある。世界が謎めいているからこそ、僕らはそれを理解せんと務めるのだろう。 だから、謎に立ち向かうつもりのない人に、まだ見ぬ未来はその姿を開示しようとはしない。形のない闇のような謎のなかに手をつっこむことでしか、人は新しい世界を切り拓くことなど、できない。それはいまにはじまったことではない。 ピーテル・ブリューゲルの模写「イカロスの墜落のある風景」(1560年代) イカ

  • 発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致: DESIGN IT! w/LOVE

    新たな理解が生まれるのを育むのは、すでに理解していることの背景にある枠組みである。 そんなことを前回の「理解を妨げるもの」という記事では書いた。 そして、それは新しい価値を創出するという意味でのイノベーションが生まれるのを阻害する要因でもあると。 フランス・アルルにあるレアチュー美術館での展示。 新古典主義の画家ジャック・レアチューのコレクションを元にしたレアチュー美術館のこの展示は、 レアチュー自身が古典的な均整のとれた人体像を描くのに、古代の彫刻の断片などを収集したことを示すものだが、 この展示に続けて、現代的な医学で扱われる人体をモティーフにした現代アート作品が置かれた瞬間、 科学的な身体の扱いと芸術家による人の体への関心がまったくひとつながりにつながる衝撃を感じる。 この日常的にはつながっていないモノ同士をつなぐ発見が今回の記事の主題である 実際、新たな価値の創出をめざして活動する

  • 理解を妨げるもの: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 何かを新しく理解するというのはむずかしい。 目の前に理解すべき新しいものが提示されたり、新しい情報を耳にしたりすれば、新たな理解を獲得できるというものではない。見たことがないものはそれが何かを理解できないことが多いし、聞いたことのない話は理解がむずかしくて、理解していないものに関する情報はいくら提供されても理解につながるわけではない。 それは何も僕らのような人に限ったことではない。 歴史に名を残しているような科学者であっても、例外ではない。 例えば、16世紀のイタリア・ボローニャで活躍したウリッセ・アルドロヴァンディという著名な博物学者もそうだ。 アルドロヴァンディについては「秘密の動物誌/ジョアン・フォンクベルタ&ペレ・フォルミゲーラ」という記事でも紹介したが、イタリア各

  • 観察者の系譜/ジョナサン・クレーリー: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 なぜ20世紀のはじめに突如として抽象画が生まれたのか? 画家たちはなぜ急に、ずっと続いた自然の模倣をやめたのか? あるいは、その予兆として、19世紀の終わりに印象派が、15世紀以来続いていた遠近法的な視点を放棄したのは何かきっかけがあったのか? よく言われるように、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが印象派を30年も先取りした絵を1840年代には描き始めていたとしたら、何がターナーにそうさせたのか? なんと、そのきっかけがゲーテが1810年に出した『色彩論』だったというのが、書『観察者の系譜』の著者ジョナサン・クレーリーである。 クレーリーは、ヨーロッパにおいて「観察者」というものが大きく変化したのが1820年からせいぜい1830年頃にかけてだと言っている。いや、正

  • 鉄道旅行の歴史/ヴォルフガング・シヴェルブシュ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 もちろん産業革命を経て人間の暮らす世界が大きく変化したであろうことはわかっていたし、同じような話は読んだこともある。けれど、こう「鉄道旅行」というキーワードに絞り込んだとき、あらためて変化の度合いは大きく、またリアルに感じられた。 例えば、すでに記事にも書いた標準時のこと。 いまでこそ当たり前に使われている世界の標準時というシステム自体が100数十年前のイギリスの鉄道の普及の歴史とともに生まれ、世界的なしくみとなったもので、それ以前は街ごとにその街の時計台の時間を街の標準時として使っていて、時間は街それぞれで固有の時間を持っていたことなんて、このではじめて知った。 あるいは、鉄道馬車という言葉は聞いたことあったし、それが蒸気機関車が走り始めるすこし前まで使われていた鉄のレ

  • 鉄道が標準時をつくった: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 びっくりした。 知らないことを突然知るのは驚きである。 いまヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行歴史』というを読んでいるが、その中にこんな一節がある。 地方は、具体的にその時間を失う。鉄道により、その地方的な時間が奪われてしまう。地方が個々に孤立しているかぎり、地方にはそれ固有の時間があった。ロンドンの時間はリーディングより4分、サヤレンセスタより7.5分、ブリッジウォーターよりも14分早かった。 最初読んでもピンとこなかった。その前に鉄道によって空間の間を移動する時間が大幅に短縮され、空間同士の距離が小さくなるといった話があったので、その流れで地方が同じ生活時間圏内になるといった話かと思った。 それにしては「ロンドンの時間はリーディングより4分…」のくだりの意味

  • モナリザの秘密/ダニエル・アラス: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 さて、2017年。今年はできるだけ小出しに自分が考えたことを外に向けて言葉で表現していく年にしようと思う。 というわけで、手はじめに年末年始にかけて読んだ、ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』というを紹介したい。 ダニエル・アラスはイタリア・ルネサンスを専門とするフランスの美術史家。惜しくも2003年に59歳で亡くなっている。このが僕にとっては最初のアラス体験だったが、読んでみて、すでに亡くなっていることを惜しいと感じた。そのくらい、僕にとっては、このアラスという人の考え方は興味深く好感をもてた。 さて、そんな感想をもったこのは、そのダラスが死の数ヶ月前まで担当していたラジオ番組が元になっている一冊だ。ダラスは不治の病を悟って、この番組を担当することにしたそうだ。 講

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  • 2015年に読んで面白かった視覚表現史に関する7冊の本: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 さて、2015年も今日で終わり。 最後に、今年読んだをいくつか紹介しておきたい。 特に、今年は「視覚表現史」とか「視覚表現の変遷を通じた思考の歴史」とでも呼べそうなを集中的に読んだので、その中から面白かった7冊を紹介しておきたい。 紹介するのは、この7冊。 高山宏『アリス狩り』バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム』ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』サイモン・シャーマ『レンブラントの目』マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』ポーラ・フィンドレン『自然の占有』 では、1冊ずつ順を追って紹介。 高山宏『アリス狩り』最初に紹介するのは、僕の読書におけるたいていの選びの基準となっている高山宏さんの処女作とな

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  • 思考の歴史というものを考えてみたい(前編:中世、そして、15-16世紀): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 何のためかはひとまず置いておいて、先日、ふと思い立って、15世紀から19世紀にかけての芸術や科学にまつわる歴史的な出来事を中心に気になるトピックをポストイットに書き出し、並べてみるという1人ワークをやってみた。 やってみると、やはり面白いものでいくつか時代の変換点といえる地点が見えたり見えなかったりしたので、今回はそれをざくっとまとめてみる。 中世まではまずは、対象外としての中世から。 「15世紀から19世紀にかけて」という視点では対象外なので、ほんと、思いつくまま、こんな特徴をあげてみた 中世の部屋はほとんど家具がなかった印刷以前、オリジナルの著作はなく、をつくることはモザイクの作成だった人は旅をするようになった このリストの最初にあげた「家具がなかった」という話はマク

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  • いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 を読んでいて興奮することの1つは、いままさに読んでいるの言葉の1つによって、いろんな別のに書かれた内容がつながり、なるほど!と思える1つのストーリーが自分のなかで編集的につくられることだったりします。 昨日もバーバラ・M. スタフォードの『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』を読んでいて、以下の一文に差し掛かったとき、別のに書かれたさまざまなことが僕のなかでつながりました。 苦悶する肉体の許されぬものと官能ばかりを描く20世紀アイルランドの画家、フランシス・ベーコン(1909-1992)が、自らのおぞましい画像の数々を説明して、こう言っている。「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」、と。 スタフォ

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  • 肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー/マリオ・プラーツ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すこし前に19世紀への興味について書きました。 19世紀というと、20世紀生まれの僕からすると、そんなに遠く感じない時代かなと思う一方で、デザインの文脈でいえば、アール・デコやバウハウス的なモダンデザインが登場する前、せいぜいアール・ヌーヴォーが19世紀の末に登場したくらいの時期であり、社会の見た目はいまとは大きく違ってもいた時代だったはずです。 特に、ヨーロッパの都市は衛生状態が劣悪で、貧困層を中心に多くの死者や病人を出すことが18世紀以来続いていました。ようやくパリで、1853年から1870年まで17年にわたって知事を務めたジョルジュ・オスマンによる大改造が行われ、都市環境が改善されはじめたのが19世紀の半ば。実際、このあと紹介していくように、18世紀から19世紀の前半

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  • 本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 僕らはごく普通に「あのはわかりやすい、このはわかりにくい」などと言ったりします。 でも、そもそも「がわかる」というのはどういうことなんでしょうか? 作者の綴る言葉から何がわかればわかったと感じ、わからない場合はどういう意味でわからないと感じるのでしょう。作者の言うことがそもそもわからないのか、何を言っているかはわかっても、だから何なのか?がわからないのか。 そして、わかりやすさやわかりにくさは、そもそも、それぞれのがもつ特性なのでしょうか? あるは、ある人にはわかりやすく、また別の人にはわかりにくいかもしれません。ある人にとってわかりやすいでも、それがおもしろいかどうかはまた別物だったりするし、その面白さもまた人によって異なるでしょう。 百聞は一見にしかずと言い

    本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド: DESIGN IT! w/LOVE
  • ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 技術とその応用が人間というものを大きく変えます。 マクルーハンが「すべてのメディアは身体の拡張である」と語ったのと同じ意味で、あらゆる技術は単に人間の生活スタイルを変えるだけでなく、人間の思考や物事の捉え方自体を革新してしまいます。 ようするに、常に僕らの思考や価値観はいま現在用いられている技術の影響なしにはありえない、そういうことになります。また、過去に同じように人々の思考を変えた技術の影響に僕らの思考は囚われたままということでもあると思います。 ほとほと困ってしまうのは、僕ら自身がそのことをすっかり忘れがちだというでしょう。 僕らは、あたかも自分たちが自由に考えているように信じているし、普遍的な仕方で考えていると勘違いしています。それゆえに思考や価値観に関してはきわめて

    ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド: DESIGN IT! w/LOVE