ブックマーク / www.aozora.gr.jp (82)

  • 断腸亭日乗 (永井 荷風 永井 壮吉)

    此断腸亭日記は初大正六年九月十六日より翌七年の春ころまで折鉛筆もて手帳にかき捨て置きしものなりしがやがて二三月のころより改めて日日欠くことなく筆とらむと思定めし時前年の記を第一巻となしこの罫帋に写直…

    断腸亭日乗 (永井 荷風 永井 壮吉)
  • 花火 (永井 荷風)

    午飯の箸を取ろうとした時ポンと何処かで花火の音がした。梅雨も漸く明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。見れば狭い路地裏の家々には軒並に国旗が出してあった。国旗のないのはわが…

    花火 (永井 荷風)
  • 濹東綺譚 (永井 荷風)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    濹東綺譚 (永井 荷風)
  • すみだ川 (永井 荷風)

    一 俳諧師(はいかいし)松風庵蘿月(しょうふうあんらげつ)は今戸(いまど)で常磐津(ときわず)の師匠(ししょう)をしている実(じつ)の妹をば今年は盂蘭盆(うらぼん)にもたずねずにしまったので毎日その事…

    すみだ川 (永井 荷風)
  • たぬき汁 (佐藤 垢石)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    たぬき汁 (佐藤 垢石)
  • 糞尿譚 (火野 葦平)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    糞尿譚 (火野 葦平)
  • 負けない少年 (吉田 甲子太郎)

    児童文学者、翻訳家。群馬県北甘楽郡生まれ。筆名は朝日壮吉等。1918(大正7)年、早稲田大学英文科卒業後、母校、立教中学の教師となる。早稲田在学中から山有三に師事し、1919(大正8)年には、浜田広介、水谷まさるらと同人雑誌「基調」を創刊。「新青年」に、吉田夏村の筆名で探偵小説の翻訳を寄稿した時期を経て、1927(昭和2)年頃からは、朝日壮吉名で「少年倶楽部」等に児童文学作品を発表するようになる。1932(昭和7)年、明治大学教授に。戦後は、1946(昭和21)年に創刊された児童雑誌「銀河」(新潮社)の編集にたずさわる。代表作に、「サランガの冒険」「源太の冒険」「兄弟いとこものがたり」等。ラドヤード・キップリングの「海の子ハービ」、マーク・トウェイン「ハックルベリー=フィンの冒険」等の翻訳もある。(代) 「吉田甲子太郎」

    負けない少年 (吉田 甲子太郎)
  • たけくらべ (樋口 一葉)

    東京府第二大区小一区(現・千代田区)内幸町生まれ。名なつ(奈津)。夏子とも書いた。1891年東京朝日新聞記者の半井桃水の指導を受け小説を書くようになり、1892年、半井桃水が主宰した文芸雑誌「武蔵野」に処女作『闇桜』を発表。生活苦により住む場所を転々とするが、1894年、小説に専念するため郷区丸山福山町(現・文京区西片)に移る。ここで一葉の代表作である『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』を執筆する。『たけくらべ』は、雑誌「めざまし草」の合評欄「三人冗語」で森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛される。1896年11月23日、結核で24年間の短い生涯を閉じる。 「樋口一葉」

    たけくらべ (樋口 一葉)
  • 闇桜 (樋口 一葉)

    東京府第二大区小一区(現・千代田区)内幸町生まれ。名なつ(奈津)。夏子とも書いた。1891年東京朝日新聞記者の半井桃水の指導を受け小説を書くようになり、1892年、半井桃水が主宰した文芸雑誌「武蔵野」に処女作『闇桜』を発表。生活苦により住む場所を転々とするが、1894年、小説に専念するため郷区丸山福山町(現・文京区西片)に移る。ここで一葉の代表作である『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』を執筆する。『たけくらべ』は、雑誌「めざまし草」の合評欄「三人冗語」で森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛される。1896年11月23日、結核で24年間の短い生涯を閉じる。 「樋口一葉」

    闇桜 (樋口 一葉)
  • 暁月夜 (樋口 一葉)

    東京府第二大区小一区(現・千代田区)内幸町生まれ。名なつ(奈津)。夏子とも書いた。1891年東京朝日新聞記者の半井桃水の指導を受け小説を書くようになり、1892年、半井桃水が主宰した文芸雑誌「武蔵野」に処女作『闇桜』を発表。生活苦により住む場所を転々とするが、1894年、小説に専念するため郷区丸山福山町(現・文京区西片)に移る。ここで一葉の代表作である『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』を執筆する。『たけくらべ』は、雑誌「めざまし草」の合評欄「三人冗語」で森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛される。1896年11月23日、結核で24年間の短い生涯を閉じる。 「樋口一葉」

    暁月夜 (樋口 一葉)
  • 厭世詩家と女性 (北村 透谷)

    1868-1894。詩人、作家、評論家。名、門太郎。神奈川県小田原市生まれ。1881(明治14)年に両親とともに東京に移住し、翌年、銀座の泰明小学校を卒業。透谷の名は、銀座数寄屋橋(すきやばし)の「数寄屋(すきや)」を「透谷(すきや)」にかえ、読みを「とうこく」にしたと言われる。一時期自由民権運動に深く影響されたが、のちになって政治から遠ざかり、キリスト教の信仰の世界に入る。25歳で自殺。 「北村透谷」

    厭世詩家と女性 (北村 透谷)
  • 漫罵 (北村 透谷)

    1868-1894。詩人、作家、評論家。名、門太郎。神奈川県小田原市生まれ。1881(明治14)年に両親とともに東京に移住し、翌年、銀座の泰明小学校を卒業。透谷の名は、銀座数寄屋橋(すきやばし)の「数寄屋(すきや)」を「透谷(すきや)」にかえ、読みを「とうこく」にしたと言われる。一時期自由民権運動に深く影響されたが、のちになって政治から遠ざかり、キリスト教の信仰の世界に入る。25歳で自殺。 「北村透谷」

    漫罵 (北村 透谷)
  • 青空文庫 注記一覧

    ここでは、テキスト版に用いる注記のうち、書式の定めのあるものを一覧にしています。 青空文庫では、テキスト版をプログラムで変換して、XHTML 版を作っています。そのプログラムは、ここにまとめた書き方を前提に動作します。 各種の青空文庫ファイル表示ソフトにも、この書式への対応を期待できます。望ましい、安定した変換結果や表示を得るため、これに従ってください。 青空文庫に収録されたテキストのうち、古い時点で作成されたものには、過去に推奨されていた古い記法が残っている可能性があります。また、テキスト点検の過程で、暫定的な新規注記が採用されている場合もあります。基的には、文書を優先してください。 その上で、2015年以降のタイムスタンプがあるファイルで、ここにない注記を見つけた際は、まだ暫定的なものだと理解した上で、各自で導入を判断してください。 ※ここでは、基的に縦組の底を念頭に置いて、説

  • 銀河鉄道の夜 (宮沢 賢治)

    岩手県花巻に生まれる。盛岡高等農林農学科に在学中に日蓮宗を信仰するようになる。稗貫農学校の教諭をしながら、詩や童話を書いた。「春と修羅」は生前刊行された唯一の詩集。農民の暮らしを知るようになって、農学校を退職し、自らも開墾生活をしつつ羅須地人協会を設立し、稲作指導をしたり、農民芸術の必要を説いた。 「宮沢賢治」

    銀河鉄道の夜 (宮沢 賢治)
  • 受験生の手記 (久米 正雄)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    受験生の手記 (久米 正雄)
  • 「いき」の構造 (九鬼 周造)

    [#横組みで、ページの上部、左右中央に]La pense doit remplir toute l'existence.MAINE DE BIRAN, Journal intime.[#改ページ、ペー…

    「いき」の構造 (九鬼 周造)
  • 徒党について (太宰 治)

    津軽の大地主の六男として生まれる。共産主義運動から脱落して遺書のつもりで書いた第一創作集のタイトルは「晩年」(昭和11年)という。この時太宰は27歳だった。その後太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた数少ない作家の一人である。戦後「斜陽」(昭和22年)は大きな反響を呼び、若い読者をひきつけた。 「太宰治」

    徒党について (太宰 治)
  • 陰獣 (江戸川 乱歩)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    陰獣 (江戸川 乱歩)
  • 野ばら (小川 未明)

    大(おお)きな国(くに)と、それよりはすこし小(ちい)さな国(くに)とが隣(とな)り合(あ)っていました。当座(とうざ)、その二つの国(くに)の間(あいだ)には、なにごとも起(お)こらず平和(へいわ…

    野ばら (小川 未明)
  • 図書カード:人間失格

    津軽の大地主の六男として生まれる。共産主義運動から脱落して遺書のつもりで書いた第一創作集のタイトルは「晩年」(昭和11年)という。この時太宰は27歳だった。その後太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた数少ない作家の一人である。戦後「斜陽」(昭和22年)は大きな反響を呼び、若い読者をひきつけた。 「太宰治」

    図書カード:人間失格