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  • むしろ科学を信用しなかった結果だろ | おごちゃんの雑文

    あんまり原発のこととか書きたくないんだが、ネタが急に転がって来たので。 震災と日人 倫理学者 竹内整一 連載(14) 科学過信による「想定外」と「はかりしれないこと」 事実誤認&我田引水もはななだしい。 福島のあたりで歴史上大きな地震がかつてあったらしいことは、「科学的」に示されている。一々ポインタ張るまでもないくらいそこらじゅうで見て、傷している。 なぜ「科学的」かと言えば、あまり歴史的な文献がない土地だから、地層とかそういったものから見るしかないからだ。都に近いところだと、かなり古い時代のものもわかったりするらしいのだけど。 つまり、「科学」によって、あの規模の地震や津波があの地で起きることは、想定されていた。 ところが、そのことが書かれた論文や警告は、その「科学」を信じない、あるいは信じたくない人達に、「政治」とか「経済」という、「科学でないもの」によって拒否された。その結果、特

    llill
    llill 2011/05/23
    科学のための科学が必要そうですね
  • もういい加減嘘を嘘と見分けるのには疲れた | おごちゃんの雑文

    まぁタイトル通りの話なんだけどさ。 これは「群集の叡智」なるものに私が懐疑的になる理由でもある。 ネットを上手に使うには、嘘を嘘と見分けるスキルが必須だというのは、まぁ了解事項だろう。それはもう言われる前からわかってるんだけど、正直そんなものに疲れないか? 自分のわかっている世界であれば、嘘を嘘と見分けるのは容易だ。でも、そんなもの見分ける暇があったら見る必要なんてない。だって、わかってるんだから。 自分のわかっていない世界であれば、嘘を嘘と見分けるのは不可能だ。何が真実かわからないから外部の知識が欲しいわけだから。 そうしてみると、「嘘を嘘と見分ける」ことが要求されて、それでも困らないということは、自分の知っている世界について新しい知見を得ることくらいしかない。その程度にしか使えないものに時間をかけるのは馬鹿げている。 たとえばこれが、「これは嘘です」と書かれている場所であれば、そこに書

    llill
    llill 2010/05/21
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