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右翼に関するlotus3000のブックマーク (6)

  • ひょっとして安岡正篤ってすげえかも〜『近代日本の右翼思想』から - 関内関外日記

    近代日の右翼思想 (講談社選書メチエ) 作者: 片山杜秀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2007/09/11メディア: 単行購入: 10人 クリック: 210回この商品を含むブログ (43件) を見る  「世の中を変えようとする、だがうまくゆかない」 「どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする」 「変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる」 「すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る」 ……これが書の第一章からおわりの第四章までのサブタイトルであってすばらしい。横浜美術館の特別展のタイトルのようではないか。ちなみに、メーンタイトルは「右翼と革命」、「右翼と教養主義」、「右翼と時間」、「右翼と身体」である。決して時系列で書かれているわけではない。 どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする

    ひょっとして安岡正篤ってすげえかも〜『近代日本の右翼思想』から - 関内関外日記
  • 『権藤成卿 その人と思想―昭和維新運動の思想的源流』を読んだ - 関内関外日記

    電気事業は地域的に営業区域が決定せられて居り、電力販売地域が限られて居りますから、販売価格に付き自由競争は行われず、独占価格が供給せられるのであります。其処には事業の改革は等閑に付せられ、為政者との結託による販売区域の獲得のみが専念せらるる結果となります。資主義産業を弁護する理由の最大なる理由たる自由競争による産業の改良進歩と云うことは毫も省みられず、暴利を是事となすに至り、資主義の最悪なる形のみが存して、其の優秀なる部分は存しないのであります。 ……官府の廊下は資家の軒下に直通して居ります。全然官許式でない産業様式を執っている国、自由産業の国に於いては官吏が出て営利会社の重役となっても別に社会を涜することはないと申し上げてもよい位でありますが、我が国の如く官許の産業方式の国では之が背徳行為なりとして却けらるる様な風習ができ上がらないならば、その害毒は計り知ることができないのでありま

    『権藤成卿 その人と思想―昭和維新運動の思想的源流』を読んだ - 関内関外日記
    lotus3000
    lotus3000 2012/10/21
    社稷の決起を狙った右翼。天皇制と東洋的アナーキズムが融合するとこうなると思う。色々限界はあるとは思うけど魅力的だ。
  • 左翼ではさらさらなく - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20081123 深町さんはあれは右翼じゃないと言っているが、左翼では尚更ないなと思った。日の左翼の暴力というのは基的には〈人〉ではなく〈物〉に対する暴力で、対人的な暴力が殺害という仕方で発動されるのは〈内ゲバ〉の場合にほぼ限られるといっていいだろう。だから、左翼だったら寧ろ自動車を燃やしたりする方を好む筈だ。また、官僚というのは(政治家と違って)どんなに高官であっても無名の人に止まることが多いので、テロの目的である宣伝効果が大きいともいえない。だから、もしやるとしても、正当化のためにも機関紙とかでそのターゲットが如何に極悪非道な反革命分子なのかが綿々と書き綴られるだろう。しかし、〈人〉に対するテロは基的には日の左翼の習慣ではない。 さて、ローリー・アンダーソンじゃなくてベネディクト・アンダーソンは、19世紀

    左翼ではさらさらなく - Living, Loving, Thinking, Again
    lotus3000
    lotus3000 2012/10/14
    ベネディクト・アンダーソンによる十九世紀テロリスト論が面白い。
  • 宇波彰現代哲学研究所 「皇国史観」という問題-長谷川亮一の問題提起

    長谷川亮一『「皇国史観」という問題-15年戦争時における文部省の修史事業と思想統制政策』 (白澤社2008年) 弱冠30歳だからテーマの掘り下げ方に少しは甘さがあると思っていたら、なかなかどうして問題意識、論理構成ともにカチッとしたものがあり、長谷川亮一は今後の研究成果を期待するに十分な現代史研究者である。先日も福岡安都子さんという1977年生まれの東大法学部助手の『国家・教会・自由-スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』(東京大学出版会7600円)という500ページの大著を手に入れたのだが、この女性がスピノザの生地・オランダに留学し、スピノザの原語であるラテン語をふんだんに引用(駆使)し、原典資料のあたり方も半端ではない。問題構成もしっかりしている。研究者だから当たり前といえば当たり前だけれども、この手の分野を専攻する若手研究者の、資料にあたる勉強家振りというか、エネルギーとい

  • 『「新右翼」とは何か。』

    「新右翼」という言葉があり、いつの間にか自然に使われるようになっている。しかし、そもそも新右翼とは何なのか、またその言葉は何を意味するのかということについては、はっきりと理解されておらず、何となく使用されているのではないだろうか。 この言葉の由来について、もっともよくある誤解は、新右翼という語を、新左翼という語の右翼版だと見なすものだろう。左翼に新左翼があるように右翼にも新右翼があるだろうというわけだ。確かにそれは間違いではない。しかし、新右翼という言葉の由来からすれば、これは明らかな誤りである。 簡単にいえば、新左翼という語は普通名詞だが、新右翼はそうではないということだ。新左翼は、旧左翼に対する言葉として登場し、使用されているが、新右翼とは、そうではなく、ある特定の右翼の個別的な形容だったということである。だから、新左翼という言葉には、特定の個別的な組織を示す内実は無いが、新右翼は、特

    『「新右翼」とは何か。』
  • 滝沢誠『権藤成卿』 - ものろぎや・そりてえる

    滝沢誠『権藤成卿』(ぺりかん社、1996年) 学生の頃、権藤成卿『自治民範』を手に取ったことがある。制度学という、漢学的語彙を以て展開される異様に晦渋な文体を前にして私は両手を挙げて降参するしかなかった。戦後になって刊行された『権藤成卿著作集』の第一巻であったが、版元は黒色戦線社。アナキストの出版社として知られている。オーソドックスな政治思想史のテキストでは“農ファシスト”と分類される権藤の著作にアナキストが関心を持っていたということが私の目を引いた。 右翼と左翼が行動的ラディカリズムにおいて紙一重ということは多少なりとも政治学になじんだ人ならば常識であろう。右翼/左翼という二分法は指標として便利ではある。ただ、政治思想の内在的な質、言い換えると個々の人物の感性に奥深く根ざした何ものかの発露として思想を把握しようとする場合、こうした形式的二分法は往々にして見る者の目をくもらせてしまう。“

    滝沢誠『権藤成卿』 - ものろぎや・そりてえる
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