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*もっと周知されるべきと差別に関するlotus3000のブックマーク (2)

  • フォビアという摩擦

    『 「あたりまえ」を疑う社会学』(好井裕明、光文社新書、2006)という新書の中に、「障害者フォビア」 について書かれている箇所がある。 「フォビア」とは日語では恐怖とか恐怖症とか訳される言葉で、「障害者フォビア」というのは、障害者を嫌ったり、 嫌がったりする行為、あるいは広くはそういう嫌悪感そのものを指す。 (こちらのサイトを見ると、とんでもない量の恐怖症(フォビア)分類にビックリです。) 障害者を排除すべきでない、障害者が暮らしやすい街づくりをするべきだ、と言う人々が、 自分の町内に障害者の作業所建設の話が起こると、一転して反対にまわったりする現象が現実の社会で見られる中、いったい障害者を嫌がる 「フォビア」とは何なんだろうか、ということを、著者の好井さんはご自身の体験から考え直している。 好井さんが銭湯に行ったときのこと。 好井さんが目をつむりながら湯ぶねに気持ちよく浸かっていて、

    フォビアという摩擦
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
    lotus3000
    lotus3000 2010/02/16
    これも叩き台として考えるべきこと。
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