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コミュニケーションと自分用に関するlylycoのブックマーク (15)

  • 対人スキルの基礎となるレベル別「空気」の読み方|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    最初に断わっておくけれど、ぼくは空気読みを偏重する世の中を好まない。 ・「空気読め」 空気なんて読めなくても快適に暮らせる。その程度には寛容な社会になればいいと思う。空気を読めない人間が何か迷惑をかけたなら、それは迷惑だと怒ればいい。誰かが不快な思いをしたら、その言動は人を不快にすると忠告してやればいい。もちろん、あなたに誰かを教育する義務はない。空気の読めない人間を見下したり、常識のない奴だと切り捨てるのも自由だ。その代り、自分が見下され切り捨てられることを進んで受け入れられるなら、だ。あなたを含め、完全に空気を読み切れる人間はいない。コミュニケーションの不完全性については、今さらいうまでもないだろう。 けれども、空気が読めないことを我がこととして真摯に考えられない鈍感な人間というのはいる。自分は読めていると慢心しているのかもしれない。だから、そういう人たちに関わらざるを得ないとき、少し

  • オンライン上で友だちを作るあまりにも簡単な方法|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実のところ、友だちとは「なる」ものではなく「思う」ものである。 ・オンライン上で友達が欲しいと、思い続けて早幾年 だから、この匿名氏は「友だちができない」のではない。オンラインで関係した人を「友だちと思えない」だけのことである。匿名氏が友だちだと思えていないオンライン上の誰かは、匿名氏のことを友だちだと思っているかもしれない。友だちとはそういうものだ。もちろん、互いに「友だち同士」だと認識し合っているケースもあろう。が、それとて「友だち」を同じように定義している保証はない。ある人は「一度でもタメ口を利いた人は誰でも友だちだ」と思っているかもしれないし、ある人は「休みの日に1対1で遊んだ人はみんな友だちだ」と思っているかもしれない。 このくらいのことは、多くの人が一度くらいは考えたことがあると思う。そして、自分が現実に友だちだと思っている人を何人か思い浮かべてみれば、無意識に自分が定義してき

  • ネットでよく見る助言好きはリアルでも助言しまくりなのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    はてな匿名ダイアリーなんかを眺めていても積極的な助言者というのは多い。 恋愛について、家庭生活について、就職について、労働について、様々な問題を抱えた人がネットにその心情を吐露する。そんな独白がひとたび注目されると、頼まれもしないのにアドバイスする人が相当数出てくる。ぼく自身、思い付いたアドバイスの内容が自分なりに面白かったりすると、ついブログにエントリーしてしまったり、ブックマークコメントに殴り書いてしまったりする。そこには「巧いこといって感心されたい願望」や「人に頼られたい願望」や「他人に影響を与えたい願望」や「あわよくば感謝とかされてみたい願望」なんかが渦巻いていて我ながら無責任なことだと思う。 そもそも、ちょっとネットに溢れ出てしまった真情吐露なんて、およそ問題の極小さな一側面にすぎない。それに色んな人の反応が積み重なって、書き手のキャラクターがネット上に形作られていく。そんな前提

  • 口ベタだからモテるコミュニケーションの心得|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    口ベタだからコミュニケーションが苦手で…というのは酷い了見違いである。 誰だって饒舌がコミュニケーションの敵だということくらいは経験的に知っているはずだ。なんて書くと、それは話がつまらないからだ、と思うかもしれない。残念ながら間違っている。話し上手の面白い話というのは芸である。つまり、娯楽だ。映画小説みたいなものである。これはコミュニケーションとしてあまり効果的とはいえない。なぜなら、相手を受身にしてしまうからだ。もちろん、天性の話術で人を惹きつけて止まない人だっているかもしれない。が、極めて稀だろう。難しい上に見返りが少ないとくれば、何も不得手な人がチャレンジすることはない。 身も蓋もないいい方をすれば、誰もが気持ち好くなれる最大のコミュニケーションは「自分語り」である。逆にいえば、うまく「自分語り」をさせることこそ肝要なのである。にもかかわらず、口ベタを自称する人の多くはいかに自分が

  • 空気の読めない非コミュはネットで嬉々として空気を読む|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ネット内に跋扈する非コミュたちは一見「空気読み」に否定的に見える。 たとえば、KYなど彼らには許容すべからざる言葉だろう。それなら、ネットは他人に空気読みを強要しない、或いは、空気の読めないユーザーに寛容な場所だろうか。ぼくにはそうは思えない。むしろ、逆なんじゃないかとさえ思う。「ネタにマジレス」だの「嘘を嘘と見抜けない人に…」だのといった定型の嘲りにしても、相当時間ネットに張り付いていない限りそこまで読めないだろうというような文脈に基いていたりする。そして、普通に読んでもギャグや冗談に見えない言説に気で噛み付いた結果、「ネタにマジレスかっこ悪い」などといって馬鹿にされてしまうのである。 そもそも、郷に入っては郷に従え式の排他精神は、以前からネットの方により強く根付いてきたように思う。「半年ROMれ」といった定型句にもそれは表れている。なまじネットが幅広いユーザーに開かれているばかりに、

  • 不完全なコミュニケーションという豊穣|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    世の中には伝わることを前提に話したり書いたりする人が意外に多いらしい。 特にネットでそれは顕著に見える。他人様のブログやはてなブックマークなど眺めていると、そういう印象をたびたび受けるのである。そして、書き手の口が達者なほどその責は読み手に押し付けられるし、その逆もある。「誤読してんじゃねえ、よく読めバカ」と「分かるように書け、バカ」は、どちらも根拠のない責任の押しつけだろう。自分の文章力や読解力は決してスタンダードではない。インターネットのように不特定多数がコミュニケーションする場においてはなおさらだ。ディスコミュニケーションの原因を他者にのみ求めるのはあまりフェアな態度とはいえない。 たとえば、ある文章を一部の人はちゃんと理解しているけれど、より多くの人が誤読している場合、それは「内容が難解なため」かもしれないし「表現が高度なため」かもしれないし「説明が不十分なため」かもしれないし「文

  • コミュ弱者の典型的なディスコミュニケーション例|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    これはネットでは、まあ、ありがちなディスコミュニケーション例だろう。 ・可愛い子になりたかったぁあああああ ・はてなブックマーク - 可愛い子になりたかったぁあああああ ・可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら ・はてなブックマーク - 可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら 元エントリーの匿名氏は、別に答えや励ましを求めてひとつめのリンク先のようなことを書いたわけではないと思う。そもそも、見るからに相談の体を成していない。「可愛い子」は「お金持ち」やら「天才」やらにも置き換え可能で、テンプレとしての汎用性は高い。要するに、ただの「無いものねだり」である。まず、相談してどうにかなるものではない。おそらくは、どうにかなるなんて当人も思ってないから相談していないのである。何に一番近いかといえば愚痴である。匿名ダイアリーに書くくらいだから、何某かの反応は欲しかったんだろう

    lylyco
    lylyco 2008/11/08
    id:ululun<確かにいい加減な書き方ですね。正常=(完全ではないが)日常的にリアルで通用する円滑なコミュニケーションレベル…くらいのイメージで書いてます。
  • 自分だけ気持良くなろうと思うな|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実のところ、彼らはどちらも「会話を楽しもうとしてる」のである。 ・会話を楽しもうとしてるのに ・はてなブックマーク - 会話を楽しもうとしてるのに だから、「会話を楽しもうとしてるのに」という苦情に対する、もっとも誠実な回答は「おれもだよ」である。ふたりのすれ違いは「どんな会話を楽しいと思うか」の違いからきている。どちらが悪いという話ではない。思いやりがないというなら、どちらも同程度にない。たとえば、はてなブックマークにも散見される「どちらかの態度がおかしい」とするような意見は、少しばかり公平な視点を欠いている。「感情的な会話が楽しい」人もいれば「ロジカルな会話が楽しい」人もいる。「知識を交換し合う会話が楽しい」という人もいるだろう。どの会話の楽しみ方が正しいということはない。 リンク先の諍いは、お互いが自分の楽しみにしか興味がなかったことに起因している。この手の齟齬は夫婦の会話に限らず普

  • 恋人とアニメ、どちらが大事か?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「アタシと○○どっちが大事なの?」というアレは都市伝説ではないらしい。 ぼくの友人は真面目な男だから、「どっちも大事だから比べられないよ」とかなんとか答えた。もちろん、彼女は満足しない。あまりに定石通りの展開である。まあ、ここまでアカラサマな比較問題でなくとも、たとえば、結婚した途端ひとりでパソコンに向かい辛くなったとか、ひとりで漫画を読み耽る時間が取れなくなったとかいう話はよく耳にする。そういうことをしていると、嫁がへそを曲げるらしい。一緒にいる時間くらい独りの世界に入ることはないだろうという理屈である。要するに、「趣味と私、どっちが大事なの?(私でしょ?)」というわけである。 これは何も夫婦に限った話ではない。たとえば、恋人が週末にデートをしようという。自分としてはその日発売のアニメのDVDを見たい。彼女はそのアニメに興味がない。興味に温度差のある相手と一緒にアニメを観る。愚行中の愚行

  • 知人を紹介するのに学歴を持ち出すのが失礼な理由

    実際、「こいつ○○大卒なんだよ!」という紹介をする人は割りにいる。 ・東大生の扱い方 ・はてなブックマーク - 東大生の扱い方 別に東大生もそれを取り巻く連中も特別扱いが難しいとは思わない。難しいというなら酷く頑固な人や怒りっぽい人や傷付きやすい人や今にも自殺しそうな人だって難しいし、そもそも人の扱いというのは総なべて簡単なものではない。高学歴学歴コンプレックスだけが際立って難しいわけではない。ぼくは神戸大学という関西にいればそれなりに知られた国立大の学部卒で、はっきりいってかなり半端な学歴の持ち主である。別にこの学歴を恥じる気持ちはないけれど、かといって誇る気持ちもない。だから、他人に「彼は神戸大卒なんですよ」とか紹介されても困る。たぶん、相手も困る。 以前いた会社で社長と客先廻りをしているとき、その社長がぼくを客に紹介するのに毎度「神戸大卒」を持ち出すのには辟易させられた。ぼくがどん

  • 個性的な人なんて所詮普通の人|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「キミ、変わってるよね」は、まず褒め言葉だと思う。 ・Geekなぺーじ : 変態願望 褒めるに困って「個性的だよね」というケースも確かにある。けれども、ルックスやファッションが微妙だとかいうニュアンスの場合は別として、人となりを評して個性的だというならそう悪い意味ではない。リンク先の「変態」も「個性的」の延長にあるものだろう。ある時期、画一的な価値観の押しつけへのカウンターとして、個性の時代なんてことをいわれたこともあった。それで、自分探しみたいな流行病が湧いて出たりもした。今もその風潮は少なからず温存されているように思う。けれども、世間に認められる個性というのは、実は相当に限定的だ。世間は当の逸脱を許さない。 リンク先であきみち氏は「ただし、この『好まれる変態』というのは非常に微妙なバランスの上に成り立っています。」と書いている。その通りだと思う。これは実のところ「普通からは逸脱するな

  • 女の子に限らず大抵のお喋りは対話を求めていない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人は普段、さほど他人の話を聞きたいなんて思ってはいない。 ・話を聞く時、女の子を不機嫌にさせる3つの言葉 : ライフハッカー[日版], 仕事も生活も上手くこなすライフハック情報満載のブログ・メディア 相手の意見や感想が聞きたくて会話を始める。そういうシーンが日常の中にどれほどあるだろう。リンク先に書かれていることは、要するに、女の子は対話を必要とはしていない、という話である。この場合、求められているのは受容や共感の類である。これは何も「女の子」なんて属性に限った話ではない。同僚に「Google Chromeさっそく入れてみたんだけどかなり好い感じ!」なんて話を振る。「ああ、おれはGoogle嫌いだから入れないけどさ。Operaで間に合ってるし」とか返されて会話が盛り上がる可能性は低い。「マジで、おれも入れてみよ」くらいの反応を期待してもいる。 もちろん、昨今のブラウザやGoogleについ

  • 食事をマズくするコミュ弱者を妄想する|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    どうせなら飯は旨くいたい。たいして味など判らないぼくでもそう思う。 ・事をマズくする人たち - タケルンバ卿日記 まあ、いわゆるあるあるネタなわけで、多かれ少なかれ飯をうことに楽しみを見出している人は、たぶんこのくらいのことを思っていたりする。ぼくもそのひとりだし、かなり共感してもいる。ただ、最初の項目「店の人にエラそう」以外は、あんまり無碍に嫌ってやるのも酷かなと思わなくもない。個人的な好悪でいえば、ぼくは出されたものは旨そうに最後まで平らげる人が好きだ。ぼく自身出された事を残すのは苦手である。この辺りはたぶん、育成環境に大きく依存する感覚だろう。外でつい頼みすぎても残せない。ヒーヒーいいながら平らげてしまう。自分でも馬鹿だなぁと思う。 そもそも事を楽しむというのは趣味の範囲の話である。生きるための事と楽しむための事は似て非なるものだ。趣味と解さない人は多い。クラシッ

  • 「カワイイ」の功罪とコミュニケーションの強度|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「カワイイ」の濫用についていまさらどうこういうのは無粋かもしれない。 ・男でも女でも「女同士の『カワイイー』は、当は可愛くないのに言ってる」っていうけど、 リンク先に書かれている、嘘っていうヤツが失礼、という主張はその通りだと思う。そもそも、A子が髪を切ったB美に「カワイイ」というとき、A子とB美の間には髪型の変化についての話題である、という共通了解がある。そこでCが「嘘」だという。「B美は可愛くない。ブスだ」という趣旨での発言なら、それはそもそも文脈を解していないだけのことである。一方、「B美の今の髪型は別に可愛くない」という意味でいったなら、会話としては成り立っている。ただ、どちらにしても失礼ではある。いずれ、「カワイイ」という言葉はあらゆる意味を含んだ褒め言葉として汎化されている。 ただし、Cの「嘘」発言にはもうひとつの可能性がある。CがB美をではなく、A子とB美の関係性を評価して

  • すべての議論は感情論である|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    感情論というのは普通、否定的な意味で使われる。 ・憂だ ・増田さんへ。私は久しぶりに激怒しました。 - iGirl - 中略 - ・増田さんへ。久しぶりにグレーターみのもんたが現れました - ls@usada’s Backyard こうした感情的なコミュニケーションは議論とはいわないし、いえない。それは基的にお互いの感情をぶつけ合うだけのものだからだ。けれども、人は処世術として感情を理屈でデコレーションして、自分の感情の正当性や妥当性を同時に担保しようとする。これは多かれ少なかれ誰もがやっていることだろう。リンク先の事例では、ああ、あの人はああいうことに怒る人なのか、という以上に有意義な情報はない。理屈などはあくまでも飾りである。そして、これに反感を持った人はさらなる理屈をもって仮想敵の非道を証明しようとする。問題は、理屈を駆使する目的である。 「オレ、やっぱダメなのかな」「弱虫!バカ

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