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自分用に関するlylycoのブックマーク (363)

  • 心身のリズムをつくる“週末リセット”のススメ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ひと月ほど前から唐突にランニングを始めた。世間ではちょっとした流行らしい。 といっても、ぼくは土日祝だけの休日ランナーである。もとより平日に走る余裕なんてない。労基法と相性のいいデザイン会社?そんなものの存在をぼくは認めない!ぼくの目が黒いうちは…いや、今はそんな話はどうでもいい。とにかく、思い立ったが吉日とばかりに安手のウェアとシューズを買い込み、いきなり走り始めたのである。手持ちのTシャツやスニーカーで始めなかったのは、ただただテンションをあげるために他ならない。ついでに iPod shuffle まで買ってしまった。勇み足である。それはともかく、これが思いのほか悪くない。むしろ快適なのである。 もうかれこれ20年近くもロクな運動をしてこなかった。当然からだは辛い。が、意外に早く慣れる。いや、慣れる程度以上には無理をしない。これが肝要である。ぼくの場合は、近所の緑地公園を30分。スピー

  • 消えたベルキューブ〜続報|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    6月に書いた「消えたベルキューブの行方を伊藤ハムに問い合わせてみた」の続報。 秋から冬頃を予定しているという話だったベルキューブの復活がいよいよ具体化してきたらしい。実に「嬉しい」と「じれったい」が相半ばする知らせである。結論からいえば、伊藤ハム側の取り扱いとしては11月1日(日)より販売開始、ただし、各スーパー店頭での取り扱いが休止以前の店舗数に戻るのは来春になるとのこと。春の棚替えといえばたいてい3月頃だろうか。即時取り扱い店舗が近所にあればいいけれど。ともあれ、あのときの問い合わせがいまだきっちり継続処理されている伊藤ハム広報の管理体制に驚愕しつつ、以下にメールの内容を転載しておく。 平素は弊社商品にご愛顧賜り、心よりお礼申し上げます。 以前、お問い合わせいただきました、ベルキューブ・アソート品 (ビストロ、ア・ラ・プロバンス、フロマージュ)3種につきまして、 販売再開時期が決まりま

  • マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人と上手くコミュニケーションがとれない。 とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。 マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができ

  • 300円分のお米と300円分のお金の決定的な違い|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ベーシックインカムやなんかの話を見聞きしていると、世の中倒錯しているなと思う。 いや、倒錯しているのはぼくの方なのかもしれない。何の話か。お金とモノと価値の話だ。どうもみんな、他人が決めた価値を無批判に受け入れすぎなんじゃないかと思うのである。当たり前のことだけれど、300円分のお米と300円分のお金はまったく別のモノだ。なぜなら、モノの価値にはふたつの側面があるからだ。ありていにいうなら、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」である。いまにも飢えて死にしそうな人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。それを同じだと思うためには、そう思える程度には裕福でなければならない。 そもそも、貨幣というのは交換を前提とした道具である。交換というのは余剰があって初めて正常に成り立つものだろう。余剰を出し合って必要なモノや何か別の余剰なモノと取り換える。人として最

  • 何をやっても「面白くない」のは何故か?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    それはたぶん、最初から「面白そうなこと」しかやらないせいだろう。 或いは「(有形無形の)成果が得られると予想できること」といい換えてもいい。目的をもって行動し結果を得ることばかりにぼくたちは慣れ過ぎてしまったんだと思う。それは要するに先が見えていることしかやらないということだ。もっというなら、行き着く先に「報酬」やそれに類するものが解りやすい形でなければ動かない。無駄を嫌う。「泣ける」映画を観に行ったり、「儲かる」仕事を探したり、「モテる」ファッションに身を包んだり、「面白そう」という言葉の向こう側に誰にも解りやすい形の見返りを期待している。だから、それらが得られないと「面白くない」。 それだけじゃない。期待したものがそれなりに得られても、それほど面白くはないだろう。当然だ。何かが得られることを想定して行動しても、成果が当初の期待を超えることはまずない。良くて期待通り。実際には、それすら稀

  • 自己決定と自己責任の圧倒的な非対称性|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    時折、「自己責任論」をフェアなものとして捉えているらしい人を見かける。 そういう人の多くは「自己決定」による結果への影響を高く見積もりすぎているのだろう。或いは、根拠のない「全能感」の表れといってもいい。この種の全能感は人生のすべての瞬間が「自己決定」に委ねられている、という世界観を前提とする。そうした自我の世界では、いま手にしている「利」のすべては自分の手柄であり、被った「害」のすべては自分の責任である。これは一見、とても能動的な世界観に見える。が、実は逆である。何故なら、それは「自己決定」不可能な条件を「すべて所与のものとして無批判に受け入れる」ことでしか成り立たない世界観だからである。 「自己決定」という入力が「ブラックボックス」を通り、ひとつの「結果」として出力される。「自己責任論」の瑕疵のひとつは、この「自己決定」権の強制と不自由を、まるでないもののように扱う点だろう。実のところ

  • 無駄遣いをなくすための2つの判断基準|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自分に「当に必要なもの」だけを手に入れる。 いうほどに簡単なことではない。そもそも「必要」という言葉は誤解を生みやすい。解釈に幅がある。たとえば、ギリギリ命をつなぐ「必要最低限の衣住」以上のものはすべて余剰だという見解はあるだろう。或いは、命をつなぐ「必要」さえ確かなものではないのだから、どんな「必要」も主観の問題にすぎないという見解もむろんあり得る。とはいえ、いま目の前に欲しいものがあるというときにそんな前提から考えていては日常生活に支障をきたす。だから、ここでは目の前のそれの必要性を量るのに比較的「汎用性が高く」、そこそこ「実用的」な基準を2つ提示してみる。 ----- ・それを買ったときの満足感や幸福感の大きさ 何かを買うとき、よくよく考えてみると「必要だと思い込んでいるもの」や「不要だと思い込んでいるもの」というのは、たぶん、少なくない。他の誰かに必要なものが自分にも必要だとは

  • 「理屈っぽい人間」はおしなべて不幸である|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人が理屈を求めるとき、そこにはたぶん、ふたつのスタートラインがある。 ひとつは、ゼロからのスタート。これは、好奇心や探究心に基づくもので、「なぜ、月は見かけの形を変えるのか?」といった類の疑問に端を発する。もうひとつは、マイナスからのスタート。これは日常を覆う不幸に起因する。「なぜ、友だちができないのか」「なぜ、恋人がいないと辛く感じるのか」「なぜ、お金が儲からないのか」…などなど、人生の不具合は数え上げればキリがない。たとえば百花繚乱の理屈が楽しめる「はてな村」など眺めているとそのことがよく分かる。そして、ぼくたちが日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないか。 およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしない。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりし

  • 給与交渉をするとはどういうことか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    お金について酷く当たり前な話をしてみる。 たとえば、会社からもらう給料に不満があるとする。なぜ不満なのか。答えは大きくふたつに分けられる。ひとつは「自分の労働の価値に比して給与が少ない」という不満。もうひとつは「(自分の価値とは無関係に)より多くのお金が欲しい」という不満だ。来、会社をはじめとする営利組織は、その質として前者の問題しか扱えない。少なくとも前者は利害の問題に収斂され得る。「あらゆる点で公正な評価」みたいな理想は叶えられないまでも、前者の不満との「対話」は可能だろう。けれども、後者はそうはいかない。そのために割くべきお金には「根拠」がないからだ。 単純化するなら、労働者は会社に対して「価値」を提供することで「対価」を得、会社は社会に対して「価値」を提供することで「対価」を得る。労働者が提供する価値を有効利用して市場に対する価値に転換、最大化するのが経営の大きな役割のひとつと

  • ワードサラダがスパムでなくなる日|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    コンピューター生成による“ワードサラダ”と呼ばれるスパムがある。 形態素解析や構文解析は文法を解する。が、文意を解さない。それで、文法的に正しく文意の通らない文章ができあがる。統合失調症にみられる言語障害が言葉のサラダ(Word salad)と通称されるのに倣って、機械仕掛けの支離滅裂な文章をワードサラダと呼ぶらしい。これがスパム分野で大活躍し、一躍、悪名を馳せた。SEO的に有効な「それらしい」文章をコンピューターで自動生成でき、しかも、その「文意の通らなさ」をコンピューターは判断できない。判断できることと作れることが対である以上、これはどうにもならない。結果、検索結果から追い出すことができない。 逆にいえば、検索エンジンが“ワードサラダ”をスパム判定できるようになるということは、コンピューターが“ワードサラダ”ではない文意の通った文章を自動生成できるようになるということでもあるんだろう。

  • 努力が報われるかどうかなんて社会とは何の関係もない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    どうにも「努力」や「報酬」という言葉が硬直しすぎている。 ・「努力報われる」半数に満たず 格差拡大 大学生冷めた見方(産経新聞) - Yahoo!ニュース 彼ら冷めた見方の大学生たちには、ぜひ「あなたはどうなれば努力が報われたと感じるのですか?」と訊いてみたい。彼らとて少し考えれば、それが多分に多様性を含んだ質問だと気付くはずだ。思うに、そもそも質問の仕方がおかしいのである。たとえば「努力が報われる社会だと思いますか?」なんて訊き方はフェアではない。それはほとんど「一所懸命に働けば地位や富が十分に手に入る社会だと思いますか?」という意味しか持ち得ない。或いは、そう取られることを意図しているとしか思えない。それなら最初からハッキリそう訊くべきだろう。言葉遣いが恣意的にすぎる。 そんなふうに「努力」や「報酬」の定義を矮小化するから話がおかしくなるのである。趣味のサーフィンがうまくなる努力をした

  • 【 取扱注意 】 「上から目線」の正しい使い方|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    流行言葉なんだろうか。「上から目線」という言葉をよく見かける。 相手を見下して偉そうなことをいう。或いは、自分もいわれる側のひとりだということを忘れて大上段からものをいう。使われ方に多少の差異はあれ、つまりは自分を言及対象から切り離し、メタな視点から俯瞰して語ることを指して「上から目線」というのだろう。あからさまにこれをやられると確かに萎える。ただ、岡目八目なんて言葉もあるくらいだ。他人事というのはよく見えるものでもある。その意味で、必ずしも否定されるべきものでもない。とはいえ、求められもしないのに的確に俯瞰してみせたところで、自ら得意になって相手の気分を害するだけということは多い。 それでも、「上から目線」には使い道がある。それも極めて有効な。眺める相手を「自分」に限定するのである。お得意の「上から目線」で自分という難儀な論敵を切って切って切りまくる。遠慮は要らない。怒り心頭に発して誰か

  • 複数端末間の iTunes 共有まとめ ~ 3つの方法と特徴|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    A:iTunes の共有機能を使う [ 公開側手順 ] 01.「環境設定」⇒「共有」⇒「ローカルネットワーク上でライブラリを共有する」 (※ 以降、Windows では「環境設定」を「編集」⇒「設定」に読み変え) [ 共有側手順 ] 01.「環境設定」⇒「共有」⇒「共有されているライブラリを検索する」 02. サイドバーの「共有」欄に共有ライブラリが表示される [ 特長 ] ・端末同士がローカルネットワークに接続されてさえいれば追加機器も面倒な設定もいらない ・複数のユーザーが同一の iTunes ライブラリを同時に参照できる [ 欠点 ] ・公開側の iTunes が起動した状態でしか利用できない ・共有側の端末から iPod や iPhone に転送はできない B:NASiTunes サーバー機能を使う [ 公開側手順 ] 01. NAS 上の共有フォルダに“iTunes Mus

  • 連休を有意義に過ごすためにいますぐにすべきこと|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    楽しいはずの連休が終わって忸怩たる思いに囚われる。 何をしていたのかよくわからないうちに終わってしまった。予定をこなすばかりでどっと疲れた。ありがちな話だ。そこには共通する陥穽のようなものがあるように思う。ひと言でいうなら「自分にとって」という視点の欠如である。せっかくの休みなんだから…という考えが心を支配するとき、人は有意義な連休を過ごすことにほとんど失敗する。連休はこうやって過ごすものという漠然とした固定観念が各々の中にあって、自分の気持ちよりもその思い込みに支配されてしまう。だから心底では気が進まない。それで満足な休日が過ごせるはずがない。では、どうすればいいか? ----- 01:いまの自分に不足しているものは何かを考える 何気なく過ごしていると、案外人は判断を誤る。何よりも休息が必要なのに焦燥感に駆られてますます疲労を溜めてみたり、何よりも適度な運動と刺激が必要なのに日がなゴロゴ

  • 国語課題:「頭が禿げてきた」で始まる文章を自由に書きなさい|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    頭が禿げてきた。 湯上りの火照った体に冷や汗が浮かぶ。それは天啓のようにぼくの脳裏を撃った。このぼくが禿げるのか。予兆はあったのかもしれない。が、意識したことはなかった。洗面台の鏡が曇っている。バスタオルの繊維にしがみつく毛髪を見た瞬間、怒りがこみ上げてくる。それは何かを呼んでいるように見えた。怒り心頭に発した私は、震えそうになる声を呑み込み、深々と息を吐いた。怒りの後に私の心を捕らえたのは、ただ漠とした哀しみであった。弱々しく宙を舞い、足元に落下していくそれに向かって私は呟く。この粗忽者、仲間を呼ぶんじゃない、行くなら独りで行きたまえ。 それは誤解なのです。わたしは声にならない声でそう叫んだ。そして、あまりにも短かったあの人との30年を思った。わたしには、あの人に大切にされたという想い出はない。仲間たちとてそれは同じだったろう。そもそも、あの人が思っているほどにわたしたちは個としてあるわ

  • ネットで人間嫌いになった人こそ Twitter をやるべき|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    いうまでもないことだけれど、この世にそうそう一面的な人間はいない。 ブログやSNS的なもの、或いは、はてなみたいなサービスは、比較的「構えた」発言が多い。特にブログはその傾向が強いかもしれない。はてなブックマークなんかも割と自分の主張を意識した発言が目立つように思う。もちろんブログだって“しょこたんブログ”みたいな使い方をする人はいる。けれども、それが大多数ということはない。そして、考えた発言は素がでにくい。素、というのは何も「ざっくばらん」みたいな、その人の特定の状態を表す言葉ではない。そんなものは素ではない、とぼくは思う。ざっくばらんなときもあれば狷介になることもある。それが自然だろう。 要するに、「素を知る」というのは「多面性に触れる」というのに近い。ブログやはてブなんかで展開される主張は、大抵の場合その人の「上澄み」でしかない。「キャラ作り」の結果といってもいい。目立つ人ほどその傾

  • 性欲とセックス欲は別物か?|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    それははじめは同じもので、いつの間にか包含関係に、そしてついには別物になる。 もう少し詳しく書こう。はじまりは思春期、或いは、第二次性徴の頃。下半身が心を支配する時代である。その頃、好きになる異性とセックスしたい異性は未分化だった。否、むしろ下半身が反応する異性をこそ、好きになっていたのかもしれない。だから、この頃のオナニーは少なくとも自分の中では明確に「セックスの代替行為」だったように思う。きっと未知なる性交への過大なる期待が、性欲をただ無条件にセックスへと向かわせていたんだろう。だから、性欲とセックス欲が同じものだったというよりは、セックスを知らないために同じに思えていたということなんだろう。 「セックスの代替物」としての性情報に溺れ、世の多彩な性嗜好を知るにつれ、セックスは性欲を満たすための手段として「たくさんあるうちのひとつ」になり下がる。恋愛感情や最中のコミュニケーションでさえ、

  • 具体的すぎるドリップ珈琲の淹れ方|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    家で珈琲を淹れるのにウェブで情報を集めても、やっぱり初めてだと戸惑うことは多い。 珈琲豆はどこでどれくらい買えばいいのか、道具はどんなものを揃えればいいのか、入れる手順やタイミングなどなど、断片的なこだわり情報は数多あれどトータルな情報というのは案外少ない。原因のひとつは「それは好みです」という要素が少なからずあるせいだと思う。実際、豆の種類や抽出方法をはじめ、たいていの項目は「好み」の問題に収斂する。けれども、当の初心者は「適当な」基準すら持たない。というわけで「ぼくの中で」スタンダードになりつつある淹れ方を、微に入り細を穿つ勢いで公開してみる。あくまで「ぼくが気軽に愉しめるレベル」の話である。 ----- 01:まずは道具を揃える ・deviceSTYLE Brunopasso グルメコーヒーミル ・Kalita 細口ポット 0.7L ・Kalita 500サーバーN 【102ドリッ

  • いま、個人的に欲しくてしょうがない絶妙なアイテム3つ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    01:“LAGASHA × carryingcase.net GUNIA for Camera”~ 気すぎないカメラバッグ デジタル一眼をかじった程度のぼくには、無骨で機能性一辺倒なカメラバッグはどうにも馴染めない。それでも、ちょっとした遠出のときなんかは、ズームレンズと単焦点レンズの2くらいは持ち出したい。ちょうどいい大きさと使い勝手、それに気の利いたデザインも、となるとなかなかに難しい。この GUNIA for Camera なら、カメラ1台にレンズ2とブロワーやなんかを入れても、財布、ケータイ、iPod、うまくすれば文庫くらいまでは入りそうな感じだ。これだけ入れば、このバッグひとつでどこへなと出かけられる。しかも、ちょっとしたカジュアルバッグを擬態して。 【 楽天リンク 】 LAGASHA × carryingcase.net GUNIA for Camera 02:“OXO

  • 「働きたくない」から「死にたい」までの距離は結構近い|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「(それ以外にやりたいことがあるから)働きたくない」というのはいい。 問題は「働きたくない(が、他にしたいこととてない)」というケースである。これは要するに「したいこと」はないが「したくないこと」だけはあるという状態を意味する。そこで「働きたくない」という希望が叶ったらどうなるんだろう。まず、最も「したくないこと」が解消されてぽっかり空いた時間に自然と幸福が満ちてきたりはしない。世界はそう都合よくできてはいない。きっと、さしてすることもない休日がそのまま引き伸ばされたような、酷く密度の薄い時間がとろとろと流れ込んでくるだけだろう。そうして、また別の「したくないこと」が浮き彫りになってくる。 いちいち断るのも面倒だけれど、「したいこと」が「日がなごろごろすること」だったり「何もしなくていい時間をぼんやり過ごすこと」だったりするのは別に構わない。それは「(それ以外にやりたいことがあるから)働き