島原の文化史的意義 島原の正式地名は「西新屋敷」でありますが、官命により、寛永18年(1641)に前身にあたる六条三筋町から移され、その移転騒動が「あたかも島原の乱の如し」と流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになりました。 島原は、寛永18年の開設以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきましたが、単に遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸が盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。また、幕末には、女流歌人蓮月尼が島原を褒めた歌を遺すなど、女性にとっても親しい町でありました。ここが閉鎖的な江戸の吉原と大きく異なり、老若男女の出入りも自由で開放的な町であった所以です。維新以降は、明治6年(1873)に歌舞練場が開設されるとともに、青柳踊や温習会が上演されましたが、立地条件の悪さのため除々にさびれてゆきました。往事の賑わいは戻らない