なぜ日本語は一人称やムード表現が充実するのか? 雪国では雪に関する語彙が充実するらしいが、言語がその必要性に応じて自然に拡張されていくものだとするならば、日本語におけるキャラクタ性や細かいムードの表現が他の言語よりも長けている原因(その必要性)とは何なのでしょうか? 具体的には、日本語では一人称が充実しています。例えば、「俺」と「僕」のどちらを使うかで、聞き手に与えるキャラクターの印象を大きく変えます。英語では「I」しかないので、彼らは一人称に対して「文法上の記号」くらいにしか感じていない可能性すらあります。 また、日本語は細かいムードやニュアンスの違いを表現するための語尾も充実しています。 例: ・これはリンゴ ・これはリンゴだ ・これはリンゴな ・これはリンゴね ・これはリンゴよ ・これはリンゴなの ・これはリンゴなのね ・これはリンゴなのよ ・これはリンゴなのだ ・これはリンゴです