1945年8月14日、旧満州で起きた葛根廟事件。あの日、何があったのか。12人の被害者・関係者が真相を語った。
1945年8月14日、旧満州で起きた葛根廟事件。あの日、何があったのか。12人の被害者・関係者が真相を語った。
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze あと康徳7年版/昭和15年版の「東洋経済特集 満州」なんかも持ってたりする。序は「満州国の産業が、あらゆる点から見て、前途頗る多望であることは、疑いもない」とかで始まるのだけど、これ書いているの主幹の石橋湛山なんだよね。この人もこう書いてまとめる、というのも時代だなぁ、と。 2014-08-12 00:09:18 涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze 「真に満州国が、我が国に有用な物資を豊富に供給し、我が産業の大市場になるまでには、今後十数年乃至数十年の忍苦を必要としやう」とか、石橋湛山をもってしてもそのように書く時代だった、というあたり、社会に底流する雰囲気は感じられようというものだ。 2014-08-12 00:10:58 涼
昭和14年5月12日払暁に来襲したソ聯軍を迎えて火ぶたを切ったノモンハンの徹底的敗北を軍事通たりし筆者がその裏面史を描く 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「ノモンハンの敗戦」(解説を読む) 関東軍には以前から一種の悪癖があった。陸軍省、参謀本部を小馬鹿にしたり、時の政府の方針など屁とも思はず、自分たちのやりたい放題のことをやる。それが日本として対内的にも対外的にもどんなマイナスになろうと知らぬ顔で通そうとする気風である。 この関東軍の悪癖は軍部全般に伝染し、やがて日華事変を巻き起すのであるが、それは本題から外れるので省略する。とに角、昭和初頭、高級参謀河本大作大佐が軍司令官や参謀長にも内緒で満洲王張作霖を暗殺し、田中義一内閣を瓦解に至らしめ、次いで間もなく満洲事変を惹き起して成功してからは関東軍はいよいよ本領(?)を発揮して張皷峯事件から、ノモンハン事件に発
加藤郁美 @katoikumi 昭和商店街で楽しい戸越~武蔵小山を散歩していたとき、朗惺寺さんというお寺で「荏原郡満州開拓団殉難者慰霊碑」に出くわし、武蔵小山商店街商業組合有志の満蒙開拓団が結成され、1039人が移民、戦況の悪化で移動中に、匪賊の襲撃を受けて800名余りが死亡したことを知って驚いた。 2017-08-06 05:36:37 加藤郁美 @katoikumi 戦況が悪化して物資が不足、配給制となり、廃業せざるを得なくなった商店主たちが、開拓民として満州へ渡らせられた。それを指導したのが…安倍祖父の岸信介商工大臣だったという😖。都会で商店主たちは農業経験がなく、開拓は困難を極めたとのこと。d.hatena.ne.jp/kaerudayo/touc… twitter.com/katoikumi/stat… 2017-08-06 05:45:40
東宝ニューフェイスの第6期生として、1953(昭和28)年にデビュー。端正なルックスとスケールが大きい演技で人気を集め、数多くの映画や舞台、テレビドラマに出演。85歳の今も幅広い活躍を続ける 宝田の原点には、苦しい戦争体験がある。日本統治下の朝鮮で生まれ、2歳からは満州のハルビンで育った。1945(昭和20)年8月15日に敗戦を迎え、暮らしも価値観もすべてがひっくり返った。「筋金入りの軍国少年」だった11歳の宝田は、あの日の「玉音放送」をどう受け止めたのか。 ハルビンの自宅で、両親といっしょにラジオの「玉音放送」を聞きました。父親と母親が、畳の上にへなへなとへたり込んだ姿をよく覚えています。両親に「これ、嘘でしょう? 日本は負けてないでしょう?」って何度も聞きましたね。自分はこれからどうすればいいのか。内臓をスポンとえぐり取られたような虚脱感というか、むなしい風穴が体の中に開いたような感覚
飛鳥~奈良時代に一時的に都が置かれた難波宮跡(大阪市中央区)の発掘調査現場から、1939(昭和14)年に旧満州(現中国東北部)とモンゴルの国境付近で旧日本・満州国軍とソ連・モンゴル軍が武力衝突した「ノモンハン事件」に関する旧日本軍の機密資料が見つかっていたことが11日、分かった。終戦時に米軍の接収を免れるため焼却処分された燃え残りとみられ、文書には「『ノモンハン』血ノ教訓」などの記載もあった。事件から今年で80年。戦争遂行に際しノモンハンを教訓に戦略を立てようとした状況が分かる貴重な資料になりそうだ。 発掘調査は難波宮の遺構がある国立病院機構大阪医療センターの建て替え工事に伴い、大阪文化財研究所(現大阪市文化財協会)が平成28~29年に実施。同所には戦前、陸軍歩兵第三十七連隊の本部があり、戦時中に同連隊が使っていた防空壕(ぼうくうごう)も十数基発見された。 防空壕は深さ1~2メートルほど。
成田 賢(なりた けん、1945年10月22日[1] - 2018年11月13日[2])は、日本の音楽家、歌手。本名は成田 慶一[1][2]。 満州国大連生まれ[3][1][2]。 略歴[編集] 2歳の時に満洲から博多(福岡県前原市)へ引き揚げ[4]し、5歳の時に父が他界し母方の実家がある北海道札幌市に移る[1][2]。 北海道札幌北高等学校に入学し、バンド活動を始める[1]。ある時、ジャズ喫茶で歌っていたところを大阪のバンドから加入の誘いを受けたことがきっかけで、歌手になる道を選ぶ[1][5]。その後単身関西へと移り、「成田賢一」の芸名でバンド「ケーパーズ」に所属。ライブハウスでの音楽活動に加え吉本新喜劇の舞台で芝居も経験する[1][5]。 その後、東京のバンド「ダークホース」での活動を経て、札幌で石間秀樹と共に「ザ・ジャローズ」を結成し活動[1]。1966年に石間とともにジャローズを脱
石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 来歴[編集] 1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。 1933年、転向・釈放後、1934年3月日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」[1]で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集
ドンガメ六号 @dongame6 戦争体験者だと特攻何か爆弾積んでブーンといってワッと爆発して死ぬんだから景気が良くてみんなに褒められてうらやましいぐらいの意見が出てくるからな。戦争は本当にクソ 2018-08-13 22:36:39 ドンガメ六号 @dongame6 うちの爺さんの好きな戦争体験は、集落の同級生で出征した十数人の中で生きて帰ったのが太平洋が始まる前に中国で肺炎患って帰ってきた爺さんと、大陸で終戦まで戦って生き残ったマジ猛者の二人だけで、集落の寄り合いだと大体そのマジ猛者と会うのでめっちゃ肩身が狭かったって話だな。 2018-08-13 23:26:56 バイオ会社員(´◓◞◒)< @yakanifu 所謂『平和学習』、ウチの地元だと俺が小学生の頃にはもう 「疎開先で同居してた従兄弟姉妹のお姉ちゃんがめっちゃエロかった。ずっと疎開してたかった」 「部屋着で飛び込んだ防空壕。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330162063 1931年の満州事変により、日本は本格的な中国侵略を開始した。 この戦いが、1937年に日中戦争へと拡大し、中国での利権が日本に独占されてしまう事を恐れたアメリカ・イギリスは、中国への軍事支援を開始する。 1940年、米英の中国への補給路『援蒋ルート』を絶つ為に、日本軍は当時フランスの植民地だったインドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス地域)の北部へと進駐(進攻)した。 アメリカは日本への対抗策(制裁)として、日本の工業に必要不可欠な『鉄』などの資源の輸出を禁止した。 1941年、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる、日本包囲網『ABCD包囲陣』に対抗するため、日本軍はインドシナ南部へも進駐し、フィリピンのアメリカ軍、マレー半島のイギリス軍、インドネ
ロシアはデスメタル・ブラックメタル大国であるとともに、世界有数のヒップホップ大国である。一般層ではメタルよりもヒップホップの方が遙かに人気が高いぐらいだ。そのロシアのヒップホップシーンで最も人気のあるレーベルが、ロストフナドヌ出身のカリスマラッパー「Бастa」が率いる『Gazgolder』だ。 Gazgolderには「Скриптонит」や「Словетский」など、今のロシアのヒップホップシーンで人気のラッパー達が数多く所属しているので、そのYouTubeチャンネルは、ロシアンヒップホップ好きは要チェック。今回はそのなかでも異質な1組を紹介したい。 ・まるで『ラストサムライ』のようなビデオクリップが 先日、Gazgolderの新曲を聞き流していたところ、妙にオリエンタルな雰囲気のメロディーが流れているのに気が付いた。映像を見てみると、なにやら鳥居が出てきたり、着物を着た女性が出てき
昨日のエントリでアフガニスタン戦争(ソ連による)と日中戦争、ヴェトナム戦争の類似性について触れたが、失敗した戦争というのはどれもどこかしら似ているというのはある意味で当たり前のことだろう。今回はシベリア出兵について。N・Bさんご推薦の『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』(原暉之、筑摩書房)から。 戦争の目的が明確に知らされなかったのは出征兵土とて同じことである。 後述するように、治安当局は任務を終わって「凱旋」する帰還兵士の言動を注意深く監視したのであるが、そうした帰還兵士の口からは、たとえば「今度出征ノ兵卒、下士ニ於テ何ノ為ニ出征セシカヲ会得セサル者多シ」とか、「出征シテ奇異ノ感アルハ我軍出兵ノ目的カ過半以上兵卒ニ了解セラレサルニアリ」といった批判の声が聞かれた。それもその筈、上官は部下に対し筋の通った戦争目的の説明をしなかったし、できもしなかった。派遣軍司令部が各兵士に吹き
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