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ブックマーク / bushoojapan.com (14)

  • 光秀が本能寺の前に詠んだ愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」の真意は?

    天正十年(1582年)5月28日、愛宕山連歌会が開かれました。 そこで詠まれた連歌が「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」と呼ばれ、明智光秀が能寺の変前に、その心を語っていた――なんて歴史ミステリーではたびたび話題になります。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」というやつですね。 大河ドラマ『麒麟がくる』では触れられず、『どうする家康』では高々と声にしていましたが、光秀は当に謀反の心境を読みたかったのか? 万が一、バレたらどうすんのよ? そんな疑問を解消するため、稿では歌と同時に、愛宕山連歌会や当時の様子を時系列順に見ていきましょう。 ※以下は明智光秀の関連記事です

    光秀が本能寺の前に詠んだ愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」の真意は?
    maturi
    maturi 2023/12/21
  • 『司馬遼太郎が描かなかった幕末』が面白いから湧いてくる複雑な思い

    司馬遼太郎(敬称略)という作家は、現在でも絶大な人気を誇っています。 坂龍馬をスターに押し上げた『竜馬がゆく』(→amazon)。 西郷隆盛と大久保利通を描き、大河にもなった『翔ぶが如く』(→amazon)。 そして現在放送中の大河『麒麟がくる』でも注目の斎藤道三と言えば、今なお『国盗り物語』(→amazon)をイメージされる方も少なくないでしょう。 私も彼の作品は愛読していました。 寝る間も惜しんでむさぼるように読みたくなる、圧倒的なおもしろさがありました。 ところが、です。 現在になって彼の著作を読み返してみると、何か違和感をおぼえてしまう。 引っかかってよくよく調べてみると、彼の著作に書かれている「史実」はまったくの創作だったとわかるわけです。 私はあの歴史上の人物の実像ではなく、創作された姿を読んで面白がっていただけなのかと、ガッカリするような、虚しいような。 今回、注目する『司

    『司馬遼太郎が描かなかった幕末』が面白いから湧いてくる複雑な思い
    maturi
    maturi 2022/08/24
    同じことを何度も繰り返して書くのは新聞連載小説だったから(≒読者が前に書いたことを覚えていないとかそれ系のサービス精神)という説を聞かされたことがある(非嘘松) 新聞小説以外でもやってると思うが
  • 渋沢栄一と伊藤博文は危険なテロ仲間だった?大河でも笑いながら焼討武勇伝を語る

    大河ドラマ『青天を衝け』で、なかなか衝撃的なシーンがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。 主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。 焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。 通常の感覚なら、こんな姿勢は褒められたものではないでしょう。 あれはドラマの中だけの話なのか? というと、実は史実においても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。 かたや資主義の父と呼ばれ。 かたや日初の総理大臣であり。 お札の顔にまでなった二人ですから、にわかには信じ難い話ですが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。 では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか? ドラマでも栄一と博文が意気投合していた怖い理由を見て参りましょう。

    渋沢栄一と伊藤博文は危険なテロ仲間だった?大河でも笑いながら焼討武勇伝を語る
    maturi
    maturi 2022/08/01
  • 信長のピンチを救った朽木元綱と「朽木越え」名門武将84年の生涯を振り返る

    実績はありながら、名声不足であまり目立たない――そんな寂しい歴史キャラはいつの世も存在します。 例えば毛利家の穂井田元清などはその一人でしょう。 普段は三の矢(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)にスポットが当たりすぎて、毛利元就の四男・元清を知ってる人は結構少ない。 しかし実際は有能で毛利家にとっても欠かせない人物でした。 ※以下は穂井田元清の関連記事となります

    信長のピンチを救った朽木元綱と「朽木越え」名門武将84年の生涯を振り返る
  • 幕末の勤王女傑こと村岡局(津崎矩子)篤姫や西郷に信頼された老女をご存知?

    大奥といいますと、女性同士が将軍の寵愛をめぐってドロドロ……そんなイメージがあるかと思います。 確かにその手の駆け引きはありますが、実のところ寵愛よりも“政治権力闘争”が行われていた場合も多いようで。 特に幕末、13代将軍・徳川家定の後継者をめぐる「将軍後嗣問題」に関しては、後に江戸後期の著名な騒動が起きるほど熱い火花が散っておりました。 大奥の女性たちは、男性たちに負けていません。 権力闘争に流されるだけではなく、自分自身の政治見解や忠誠心をもって、幕末という難局に立ち向かった者たちもおりました。 そんな中で「勤王女傑」と称されたのが、西郷隆盛や篤姫とも関わりが深い村岡局(津崎矩子)。 明治6年(1873年)8月23日が命日となります。 近衛家に出仕 そして篤姫がやってきたのちに村岡となる津崎矩子(つざきのりこ)は、天明6年(1786年)、京都で誕生。 寛政10年(1798年)から近衛家

    幕末の勤王女傑こと村岡局(津崎矩子)篤姫や西郷に信頼された老女をご存知?
  • 死者83万人と目される華県地震の恐怖 お隣・中国に見る地震災害の歴史

    一般的にデカイ事件ほど、歴史では大きく取り扱われるもの。 しかし、世の中には「なんでこれがあまり知られてないんだろう」と不思議になるような出来事もままあります。 お隣の国で起きていた、とある災害に着目です。 1556年(日では戦国時代・弘治二年)1月23日は、中国で華県地震という大規模な地震が起きた日です。 洞穴住居が被害を拡大させたとか同地震では、現在の陜西省(西安がある省)を中心として、実に83万人もの死者が出たといわれています。 当時この地域には窰洞(ヤオトン)という崖に横穴を開けた住居が多く用いられており、そのために被害が大きくなったのだとか……。 しかも、地震が起きた時間帯が真夜中だったそうです。 災害史の中でも最悪の組み合わせといえるでしょう。 また、この時期は中国史としてみると「北虜南倭」という困難に見舞われた時期でもあり、明王朝にとってはかなり痛い災害だった……はずなので

    死者83万人と目される華県地震の恐怖 お隣・中国に見る地震災害の歴史
    maturi
    maturi 2020/05/22
    ”当時この地域には窰洞(ヤオトン)という崖に横穴を開けた住居が多く用いられており、そのために被害が大きくなったのだとか……。”  この写真がそうかな
  • 戦後のモンゴルで日本人元兵士が同胞を死に追いやった「暁に祈る事件」発覚から65年 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    maturi
    maturi 2017/02/17
    モンゴルは、この時の論功行賞で、ソ連が捕虜とした日本陸軍将兵と民間人のうち、1万2千名あまりを労働力として受け取ったのでした。そして、1947年12月までの約2年間、モンゴルは、これらの日本人を酷使し、シベリア抑
  • ヒトラーの着物コスプレ写真に驚き なぜこんな和装姿が撮影されたのか?

    世に著名人のコスプレ写真は多々ありますが、その極めつけともいうべき一枚がこれ。 あのヒトラーの着物姿画像です。 特ダネとして報じた英国のデイリー・エクスプレス紙(→link)も驚愕しています(2015年6月21日付け)。 正装姿で、ちゃんとスワチカの染め抜き紋まで入っています。 意外と様になっているのが恐ろしい。 ナチスの制服を着ている時よりもワルぶりが際立つ感じで(汗)。 「このレアな写真は、一見した限りでは残虐な暴君が下手なパントマイムで女性を演じているかの如くという感じだ。しかし、実際は日の着物の正装姿なのだ」 とエクスプレス紙。 英国人からすれば、そう見えるんですね。 こっちからしたら、実話系雑誌で見かける親分のインタビュー写真を思い起こさせるんですけど。 記事では「ヒトラーが異文化好きではなかったのにもかかわらず」と続いています。 実際、その著書『我が闘争』で日人蔑視の下りが

    ヒトラーの着物コスプレ写真に驚き なぜこんな和装姿が撮影されたのか?
  • 100年前の第一次世界大戦の戦場で撮影された320枚のカラー写真 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    第一次世界大戦から100年の2014年、特に海外のサイトでは様々な企画や記事が展開されています。その中でもこれはちょっと面白い記事かもしれません。ザ・ローカルという英語サイトで、第一次世界大戦中のドイツ軍の様子を映したカラー写真を紹介しているのです。「当時から、あったんだ! へ〜」って感じですよね。 20世紀初頭にフランスで特許をとったカラー写真群 歩哨にたつドイツ兵 大戦勃発100周年を記念して、作家のペーター・ワルスエル氏が収集したものなのだそうです。 20世紀初頭、フランスで特許を取ったオートクロームという先進的な技術があり、それを基にして撮影されたカラー写真320点を紹介しているのです。ドイツだけでなく、欧州各国やアメリカ、オーストラリアのアーカイブにも問い合わせたとの事ですから、頭が下がりますね。 現像のために最前線よりは奥で撮られたものが多いのだとか ご覧のように、色合いは良く

    100年前の第一次世界大戦の戦場で撮影された320枚のカラー写真 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
    maturi
    maturi 2014/08/20
    "タンク戦車"
  • 桑姫神社はキリシタンが御祭神!? 世にも稀な神社が長崎の稲佐山にあった - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    maturi
    maturi 2014/06/12
    つまり、桑姫神社はキリシタンとして立派に信仰を持っていた人が御祭神という、世にも稀な神社なのです。 愉快といえば良いのでしょうか、それとも素朴だ、ということなのか。この宗教的な寛容さが生んだ神社が存在
  • 世界遺産フランス料理も形無し(´・ω・`) すんごく大変だった仏軍のミリメシ事情【第一次世界大戦100年Vol.11】

    さて、英国の第一次世界大戦中のミリメシ事情が大概悲惨だったことを前回「第一次世界大戦のミリメシ事情…まずいわ、量は少ないわ【第一次世界大戦100年Vol.10】」において紹介しましたが、戦場となった当事国のフランスはもっと大変でした。何しろ、助っ人として来た英国など連合軍と、自分達の軍、植民地からの救援軍の面倒を見なければならなかったからです。しかも、占領されている分、自由になる農産物は限られる訳ですから。 そうした悲惨な事情を、17thdivision.tripod.comというサイトが紹介しています。 フランス料理の国だもん 兵士が作って配膳せい! 当初、フランス陸軍は大隊や中隊レベルで糧補給していました。つまり、最前線の兵士の場合、順繰りで役割を宛てられては、自分達で調理をしたり、配ったり、塹壕のメンテナンスとかをしていた為、兵卒の間では疲労が蓄積していきました。 …と言うか、調理

    maturi
    maturi 2014/04/16
    ガダルカナルでもそれ言えんの?っていう電波を受信
  • 黒人だけの米陸軍航空隊タスキーギ・エアメン~第二次世界大戦の空を飛ぶ

    第二次世界大戦のとき、アメリカにあった黒人兵だけによる編成部隊。 これより紹介させていただくタスキーギ・エアメンという陸軍航空隊も、その1つです。 1939年4月3日に米議会で承認され、今や戦後70年も過ぎて、当時の隊員も次第に鬼籍に入るようになりましたが、また1人が亡くなられました。 ウォー・ヒストリー・オンラインで追悼しておりました(2014年1月24日付け)。 亡くなられたのはジェームズ・ボーマン氏。 ピッツバーグ近郊で亡くなられたのですが、享年91だったそうですから、戦争に駆り出された頃は20歳になるかならないかという若さだったのですね。 公然と法的に差別されながらも戦場にまずは部隊の成り立ちなどを、サラッとウィキペディアの英語版(→link)から解説していきましょう。 当時のアメリカにはジム・クロウ法と言うのがありました。 ざっくり言うと、人種差別を規定したもので、公共の一般施設

    黒人だけの米陸軍航空隊タスキーギ・エアメン~第二次世界大戦の空を飛ぶ
    maturi
    maturi 2014/01/29
    タスキギー実験の背景にはこんな社会・世間・案件があったのか
  • 古墳時代のシャンデリア風の馬具が描く古代日本と百済の微妙な関係【船原古墳】 | BUSHOO!JAPAN

    福岡県古賀市の船原古墳(7世紀初め)で4月に発見され「国宝級」と騒がれた金銅製馬具の一つが、馬の背中につけているときにシャンデリアのように揺れてきらきら光る、花びら形の金具(歩揺)を組み合わせていたこと分かりました。古賀市教委と九州歴史資料館が24日に発表し、共同通信などが報じています。 中日新聞(記事は共同通信)から 共同通信HPより この馬具一式は、今年4月に古墳に隣接する穴から見つかったものです。 馬具を埋めるための専用の穴というのは国内でも例がありません。また、馬具の復元図はよく博物館でも見かけますが、それは埴輪(はにわ)をもとにした想像図で、この一式が出たことで実物から、実際に馬にどのように馬具が装着されたかが分かるようになることが期待されています。 こんな感じだったのだろうか 発見当時は、黄金色(金銅製)の引き手(ジョッキーが持つひも)は法隆寺近くの「藤ノ木古墳」の出土品(百

    古墳時代のシャンデリア風の馬具が描く古代日本と百済の微妙な関係【船原古墳】 | BUSHOO!JAPAN
  • 秀吉お気に入りの宇喜多秀家 27歳で豊臣五大老に抜擢され関ヶ原後に島送りの生涯

    豊臣秀吉は一代で異常な出世をした人だけに、親族衆や家臣の層が薄いことが弱点。 そのため、息子のような世代の人物を積極的に取り込もうとしています。 福島正則や加藤清正のような、いわゆる”子飼い”と呼ばれる人々はその代表例。 他に当てはまるのが、中国地方の大名・宇喜多秀家でしょう。 秀吉に気に入られ、その養女だった豪姫(実父は前田利家)をに与えられ、後に豊臣五大老に選ばれるほどの出世を果たした人物です。 ただし、その後は関ヶ原の戦いで敗北。 八丈島に流され、寂寥感ただよう最期を迎えた……と思いきや、明暦元年(1655年)11月20日に、享年84で亡くなるまで長生きをされているのですから、人の一生とはわからないものです。 イケメンとしても知られる宇喜多秀家とは一体どんな人物だったのか? その生涯を追ってみましょう。

    秀吉お気に入りの宇喜多秀家 27歳で豊臣五大老に抜擢され関ヶ原後に島送りの生涯
    maturi
    maturi 2013/08/29
    荒山徹先生を!
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