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船舶に関するmforce4のブックマーク (975)

  • 伊号第五十六潜水艦 - Wikipedia

    伊号第五十六潜水艦(いごうだいごじゅうろくせんすいかん、旧字体:伊號第五十六潜水艦)は、日海軍の潜水艦。伊五十四型潜水艦(乙型改2潜水艦)の2番艦。艦名としては二代目。 初代伊56については伊号第百五十六潜水艦、または伊百五十六型潜水艦を参照のこと。 艦歴[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル追計画)で建造が計画され、横須賀海軍工廠で1942年9月29日起工、1943年6月30日進水、1944年6月8日に竣工した[2]。呉鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入され、訓練に従事。 1944年9月20日に第15潜水隊に編入。10月15日、伊56は呉を出港し、フィリピン東方に進出。24日、米輸送船団へ向け魚雷3を発射し、米戦車揚陸艇LST-695を撃破した。翌25日2234、レイテ島南東150浬地点付近で、米空母4隻を中心とした機動部隊を発見し、魚雷5

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  • 伊号第五十四潜水艦 - Wikipedia

    伊号第五十四潜水艦(いごうだいごじゅうよんせんすいかん)は、日海軍の潜水艦。伊五十四型潜水艦(乙型改2潜水艦)の1番艦。艦名としては二代目。 初代伊54については伊号第百五十四潜水艦、または伊百五十三型潜水艦を参照のこと。 艦歴[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル追計画)により、横須賀海軍工廠で1942年7月1日起工、1943年5月4日進水、1944年3月31日に竣工した。横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入されて訓練に従事。 1944年7月6日、伊54は横須賀横須賀を出港しサイパン島へ運砲筒を輸送中、9日のサイパンの陥落により目的地をテニアン島に変更するも、同日運砲筒が波にさらわれて沈没したため輸送に失敗。10日に第15潜水隊に編入。24日、横須賀に帰投。 その後、伊54は捷号作戦の発動準備のために呉に移動。10月13日に呉を出港しフィリピ

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  • 伊号第四十五潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十五潜水艦(いごうだいよんじゅうごせんすいかん、旧字体:伊號第四十五潜水艦)は、日海軍の潜水艦。伊四十型潜水艦(巡潜乙型改一)の6番艦である。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十七型潜水艦の26番艦[2][3]。1944年(昭和19年)、フィリピン方面で戦没。 艦歴[編集] 1941年 - マル急計画第375号艦。 1942年7月15日 - 佐世保海軍工廠で起工。 1943年3月6日 - 進水。 12月28日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。 1944年3月25日 - 第15潜水隊に編入、呉を出港。 4月5日 - マーシャル諸島方面で爆撃を受け損傷。呉海軍工廠で修理。 6月28日 - 横須賀を出港、テニアン島へ運貨筒を輸送する計画だったが失敗。 10月13日 - 呉を出港、フィリピン方面へ向かう。 10月25日 - フィリピン東方にて消息を絶つ[4]。 10月28日 - レイテ島東方

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  • 伊号第四十四潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十四潜水艦(いごうだいよんじゅうよんせんすいかん、旧字体:伊號第四十四潜水艦)は、日海軍の潜水艦。伊四十型潜水艦(巡潜乙型改一)の5番艦である。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十七型潜水艦の25番艦[3][4]。1945年(昭和20年)回天攻撃隊に参加し戦没。 艦歴[編集] 1941年 - マル急計画第374号艦。 1942年6月11日 - 横須賀海軍工廠で起工。 1943年3月5日 - 進水。 1944年1月31日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。 4月28日 - 第15潜水隊に編入。 5月15日 - 呉発、ニューアイルランド方面へ進出。 5月27日 - 航空機の爆撃を受けた後、駆逐艦の爆雷攻撃。損傷のため呉海軍工廠で修理。 10月19日 - 呉を出港するが事故のため引き返す。回天搭載工事に着手。 1945年2月21日 - 回天攻撃隊千早隊として呉を出撃、硫黄島へ向かう。 4月3

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  • 伊号第四十三潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十三潜水艦(いごうだいよんじゅうさんせんすいかん、旧字体:伊號第四十三潜水艦)は、日海軍の潜水艦。伊四十型潜水艦(巡潜乙型改一)の4番艦である。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十五型潜水艦の24番艦[2]。1944年(昭和19年)輸送作戦の途中戦没。 艦歴[編集] 1941年 - マル急計画第373号艦。 1942年4月27日 - 佐世保海軍工廠で起工。 10月25日 - 進水。 1943年11月5日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。 1944年2月9日 - 輸送作戦のため呉出港。 2月11日 - 第15潜水隊に編入。 2月13日 - サイパン入港、佐鎮第101特別陸戦隊59名を乗せる。 2月14日 - サイパン出港、トラックへ向かう[3]。 2月15日 - トラック諸島北方(10°23'N, 150°23'E)で米潜「アスプロ」の雷撃を受け沈没。乗員107名、陸戦隊員59名全員戦

    伊号第四十三潜水艦 - Wikipedia
  • 伊号第四十二潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十二潜水艦(いごうだいよんじゅうにせんすいかん、旧字体:伊號第四十二潜水艦)は、大日帝国海軍の伊四十型潜水艦の3番艦。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十五型潜水艦の23番艦[1]。 戦歴[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、呉海軍工廠で1942年3月18日起工、1942年11月10日進水、1943年11月3日に竣工した。横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊の第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。 25日、第11潜水戦隊は第六艦隊に移籍。 1944年(昭和19年)1月31日、伊42は第15潜水隊に編入される。 1944年2月12日、伊42は横須賀を出港し、トラック島北東方面に進出するも、戦果のないまま3月3日にサイパンに帰投。その後トラックに向かい、7日に到着した。 15日、伊42は輸送任務に参加するべくトラックを出港。19日にパラオに入港して輸送人

  • 伊号第四十一潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十一潜水艦(いごうだいよんじゅういちせんすいかん、旧字体:伊號第四十一潜水艦)は、日海軍の潜水艦。伊四十型潜水艦(巡潜乙型改一)の2番艦。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十五型潜水艦の22番艦[2]。ソロモン方面で輸送に従事しフィリピン沖で機動部隊攻撃後に戦没した。 概要[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、呉海軍工廠で1942年3月18日起工、1942年11月10日進水。1943年6月18日、吉松田守少佐(海兵55期)が艤装員長に任命される。「伊41」は1943年9月18日に竣工し、吉松少佐も初代艦長に任命された。横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊の第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。 25日、第11潜水戦隊は第六艦隊に移籍。 12月15日、艦長が板倉光馬少佐(海兵61期)に交代。後、「伊41」は「不死身」と言われた板倉艦長の下、数多くのエピ

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  • 伊号第四十潜水艦 - Wikipedia

    伊号第四十潜水艦(いごうだいよんじゅうせんすいかん、旧字体:伊號第四十潜水艦)は、大日帝国海軍が用いた伊四十型潜水艦(巡潜乙型改一)の1番艦。ただし、艦艇類別等級別表においては伊十五型潜水艦の21番艦[2]。 艦歴[編集] 1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、呉海軍工廠で1942年3月18日起工。8月20日には横須賀鎮守府籍となり、[3]、艦艇類別等級別表に記載された[2]。1942年11月10日進水、1943年7月31日に竣工した。訓練部隊の第一艦隊第11潜水戦隊に編入され、訓練に従事。 10月31日、伊40は第2潜水隊へ配属[4]。 11月13日、伊40は横須賀を出港し、トラック島に向かう。11月19日にトラックに到着し、補給を受けた後の11月22日にマキン島方面へ向かうべくトラック島を出港していくのを最後に消息不明となる。 アメリカ軍に撃沈の記録がないた

    伊号第四十潜水艦 - Wikipedia
  • 伊五十四型潜水艦 - Wikipedia

    伊五十四型潜水艦(いごじゅうよんがたせんすいかん)は、大日帝国海軍の潜水艦の艦級。乙型潜水艦の最後の型で巡潜乙型改2(じゅんせんおつがたかい2)とも呼ばれる。全部で3隻が建造され、1944年に竣工し、「伊58」を除いた2隻は太平洋戦争で戦没した。主として回天特別攻撃に従事した。最大の戦果は「伊58」による米重巡洋艦「インディアナポリス」の撃沈である。 マル追計画で計画された乙型潜水艦は計画番号S37Cとし7隻が計画され3隻が横須賀海軍工廠で竣工、残りは建造取り止めとなった。 伊54型は戦時急造を更に進めた型である。主機は工作容易な艦式22号10型に改めたため、出力は低下し速力も17.7ノットまで低下した。主電動機も生産が困難となったことから今までの約半分の出力のものにされた。ただし主機の重量低減分、燃料搭載量が増加したこと、また主機の燃費が良くなったことから航続距離は増大した。使用鋼材

    伊五十四型潜水艦 - Wikipedia
  • 伊号第五十八潜水艦 - Wikipedia

    1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル追計画)により横須賀海軍工廠で建造され、1942年12月26日起工、1943年(昭和18年)10月9日進水、1944年(昭和19年)9月7日に竣工。呉鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入される。 12月4日第15潜水隊に編入、先遣部隊に配備された。これより先の11月、日海軍は人間魚雷回天を戦線に初めて投入し、第一陣である菊水隊の回天がウルシー環礁で給油艦「ミシシネワ (USS Mississinewa, AO-59) 」を撃沈する戦果を挙げていた。「伊58」も回天作戦に2回目から起用される事となった。 金剛隊は「伊58」を含む6隻の潜水艦、24基の回天を以って編成され[2]、「伊58」の攻撃目標はグアム島アプラ港と指定された[2]。12月29日、「伊58」は呉を出港し、大津島に移動する。12月30日、大津島を出港し呉に移動

    伊号第五十八潜水艦 - Wikipedia
  • 隼鷹

  • 日本海軍史 商船改造空母2

    隼鷹型の概要 隼鷹、飛鷹の二空母は、日郵船の豪華客船橿原丸、出雲丸を改装した商船改装空母で、第二次大戦中七隻の商船改装空母が就役したが、隼鷹、飛鷹はその第一陣であるとともに、最大の商船改装空母であった。隼鷹、飛鷹の前身である橿原丸、出雲丸は日郵船が太平洋航路用の豪華客船として昭和十一年に計画したもので、この当時、太平洋航路には英、米の汽船会社が次つぎと新鋭客船を投入していたが、日郵船がこれに対抗し、新田丸クラスに引き続き、これを上回る豪華客船を建造せんとしたもので、建造にあたっては政府の船舶建造助成施策である、大型優秀船建造助成施設の摘要をうけた。政府の海運助成製作は昭和七年ごろから格的に実施され、船舶増強、優秀船舶整備による日海運業の振興という国家的政策にもとづき、手厚い建造費補助を行なってきたが、この政策は同時に優秀船舶を多数整備し、有事のさいは海軍の特設艦艇改装空母として使

  • 『飛鷹型航空母艦 隼鷹』

    艦級概観 艦種 航空母艦 艦名 飛鷹・隼鷹 前級 次級 性能諸元 (竣工時) 排水量 基準:24,100t 公試:27,500t 全長 219.3m 全幅 水線幅:26.7m 吃水 8.15m 飛行甲板 210.3m x 27.3m エレベーター2基 主缶 飛鷹:ラモント式缶6基 隼鷹:三菱式缶6基 機関 飛鷹:川崎式タービン 隼鷹:三菱ツェリー式タービン 2基2軸 56,250hp 最大速力 25.5kt 航続距離 12,251nm / 18kt(飛鷹) 乗員 1,187名(飛鷹) 兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基 25mm3連装機銃8基 搭載機 (常用+補用) 艦上戦闘機12+3機 艦上爆撃機18+2機 艦上攻撃機18+5機 合計48+10機 飛鷹型航空母艦(ひようがたこうくうぼかん)は、かつて大日帝国海軍に在籍した航空母艦の艦級の一つ。建造途中の民間高速客船を取得し、航空母

    『飛鷹型航空母艦 隼鷹』
  • 日本海軍伊号潜水艦 写真特集:時事ドットコム

    1/16 スクロールで次の写真へ 伊号第402潜水艦(伊402潜) 攻撃機を搭載した「水中空母」伊号400型の3番艦。全長122メートル、水上排水量3530トン、水中排水量6560トンという巨艦で、特殊攻撃機「晴嵐」を艦内に3機搭載、3万7500海里(約7万キロ)という長大な航続性能を生かし、米土を攻撃することを目的としていた。 伊号400型は1942(昭和17)年に開発が始まり、18隻を建造する計画だった。しかし、戦況の悪化に伴って建造数は5隻に縮小され、1隻当たりの攻撃力を高めるため、攻撃機の搭載数を当初の2機から3機に増やした。1番艦の伊400潜は44(昭和19)年12月、2番艦の伊401潜は45(昭和20)年1月に竣工。当初はパナマ運河の攻撃が計画されたが、後に米海軍の拠点となっていた西太平洋カロリン諸島のウルシー環礁を攻撃することになった。両艦は晴嵐を合計6機搭載して同年7月2

    日本海軍伊号潜水艦 写真特集:時事ドットコム
  • 航空母艦「ニミッツ級」 - 裏辺研究所(軍事・戦術研究所)

  • 瑞鶴

  • サン・ジョルジョ級強襲揚陸艦 - Wikipedia

    サン・ジョルジョ級強襲揚陸艦(イタリア語: navi d'assalto anfibio classe san giorgio)は、イタリア海軍のドック型輸送揚陸艦の艦級[2]。 ほぼ全通した飛行甲板とウェルドックを備えており、公称は強襲揚陸艦であるが、アメリカ海軍協会 (USNI) やジェーン海軍年鑑ではドック型輸送揚陸艦(LPD)と類別している[3]。 来歴[編集] イタリア海軍は従来、アメリカ合衆国から譲渡されたグラド級戦車揚陸艦(LST)を運用してきた。1980年代になり、老朽化した同級の更新、および練習艦任務にあたっていたヘリコプター巡洋艦「カイオ・ドゥイリオ」の後継に充当するため、建造されたのが級である[4]。 ネームシップである「サン・ジョルジョ」のほか、「サン・マルコ」及び「サン・ジュスト」の3隻が建造された。「サン・ジョルジョ」と「サン・マルコ」は1987年とその翌年に

    サン・ジョルジョ級強襲揚陸艦 - Wikipedia
  • ミストラル級強襲揚陸艦 - Wikipedia

    ミストラル級強襲揚陸艦(ミストラルきゅうきょうしゅうようりくかん、フランス語: Bâtiment de Projection et de Commandement Type Mistral)は、フランス海軍の強襲揚陸艦の艦級。フランス海軍の正式な艦種呼称は指揮・戦力投射艦(Bâtiment de Projection et de Commandement、BPC)とされている。 マルチハザード化およびグローバル化に伴う任務の多様化に対応して、水陸両用作戦以外にも人道援助など戦争以外の軍事作戦も考慮した多目的母艦とされている。 計画時には「Nouveaux Transports de Chalands de Débarquement」(NTCD)と呼ばれていた。フランス海軍の正式な艦種呼称は指揮・戦力投射艦(Bâtiment de Projection et de Commandement)

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  • 重巡洋艦妙高型-軍艦画像DBP

    妙高 妙高型のネームシップ。昭和4年7月31日竣工。妙高型は条約型重巡洋艦の最初の型である。青葉型の設計を元に建造された。昭和9年11月より昭和10年2月まで改装が行われた。昭和12年8月より上海上陸作戦、華南作戦に参加。昭和15年3月より二度目の改装工事が行われ、昭和16年4月完了。太平洋戦争に参加。昭和17年2月より3月まで蘭印作戦、スラバヤ沖海戦、ジャワ沖海戦に参戦。その後も、ミッドウェー作戦、ソロモン海戦、マリアナ沖比島沖海戦と転戦。昭和19年12月23日、国への帰国途中、サンジャック沖で被雷し大破、シンガポールで終戦をむかえた。昭和21年7月2日、イギリス軍により海没処分。 那智 妙高型ニ番艦。昭和3年11月26日竣工。昭和10年2月より昭和11年7月まで改装が行われた。昭和12年8月、日華事変により上海上陸作戦に参加。昭和13年10月から第二次改装が行われ、昭和15年3月に完

  • 戦艦陸奥

    戦艦陸奥 艦歴 大正 7年 6月 1日 八八艦隊計画の二号艦として、横須賀海軍工廠で起工 大正 9年 5日31日 進水 大正10年10月24日 竣工 昭和 2年 1月  日 艦首形状変更工事 昭和 2年  月  日 海軍大演習、昭和天皇が乗艦 昭和 9年 9月 5日 二カ年計画の近代化改装工事開始 昭和11年 9月30日 改装工事完了 昭和17年 5月29日 ミッドウェー海戦に参加(交戦することなく6月6日に帰投) 昭和17年 7月  日 武蔵の完成に伴い第二戦隊に編入 .              ソロモン作戦支援部隊としてトラック島に進出 昭和18年 1月  日 横須賀に帰港して修理の後、柱島泊地に回航 昭和18年 6月 8日 柱島沖で爆沈 昭和19年 7月  日 陸奥の燃料庫から重油約600トン回収 昭和19年 9月 1日 除籍 昭和20年 8月15日 終戦 昭和23年  月  日