自分の健康のためだとか、あるいは美容(?)のためだとかいうことは、減量し、食事を控える正しい動機ではあっても、それが強力な動機付けになるとは限らない。それに対して、Wii Fitのように、体重がゲームのスコアになったとき、強力な動機付けになる。 あることをゲームとして捉えたとき、それを達成したり、それで良いスコアを出したりすることに、人は楽しみを感じる。その「あること」は、まったく無意味なことであろうと、何か有意義なことであろうと、楽しさにはおそらく違いはない。問題は、何をゲームとして捉えるか、そしてそれをどのようにするか、ということである。長くはない人生の時間を無駄にしたくないのであれば、「何を」という問いに対して、答えるのは、それほど難しくはない。それに対して、どのように、ということに関しては、常に大きな困難が伴う。まず、ゲームとして捉えられるような、苦痛のないインタフェースや、指標(
Henry Jenkins, "Game Design as Narrative Architecture," 多分、この論文がHenry Jenkinsの代表作なのだと思う。LudologyとNarratologyの対立を乗り越え、ゲームにおけるナラティブの位置づけについて考えるための里程標的な論文であると思う。この論文は、ゲームにおけるludologyとnarratologyとの間の対立を契機としながら、ナラティブ一般について再考を促す、長い射程をもつ(とはいえ、私自身はナラティブ一般についての学問的言説について云々する資格を持たないのだが)。 かつてゲーム研究は、ナラティブを中心に研究する人達で占められていた。もともと、文学や、映画を研究していた人達がゲーム研究に移ってきたことが多かったが故に、それはごく自然なことだった。それがGonzalo Frascaのludologyの提唱によ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く