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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (6)

  • 知里真志保のアイヌ学批判 - 我が九条

    大江健三郎氏は知里真志保に関して次のように述べる。 知里博士が戦いをいどみ、そして絶対に全滅させる敵は、一般的にはよきアイヌ理解者と目されている学者たちである。博士はそうしたアイヌ理解者の精神の奥底にアイヌへの見くびりや、安易な手をぬいた研究態度を見つけだしてそれを叩きつける。しかもその怒りの声の背後からは切実な悲しみの声も聞こえてきて、それはわれわれをうたずにはいられない。 知里真志保はアイヌ民族ではじめて国立大学の教授に就任したアイヌ学の研究者である。東京帝国大学で金田一京助に師事し、北海道大学教授に就任した。姉は『アイヌ神謡集』で有名な知里幸恵、伯母はユーカラの伝承者であった金成マツである。知里真志保の最大の特徴は彼がアイヌ語を母語としていなかった、という点であろう。彼の父知里高吉と母ナミはクリスチャンで早くから日語や英語を学び、アイヌ語を全く話さなかった。幸恵は伯母の金成マツのと

    知里真志保のアイヌ学批判 - 我が九条
  • 木村龍治氏再録 - 我が九条

    科学的認識とは何か、ということに関して、非常に良い文章。一昨年の10月26日のエントリ「国語の問題文のクリッピング - 我が九条」で取り上げているのだが、今日授業で扱ったので再録。 ユリ・ゲラー来日時に出演者の一人が発言する。 いままでの自然科学は、何でも疑うことを前提に議論を進めてきた。しかし、疑ってばかりいては、新しい発見は生まれない。自然科学の原点は、先入観をもたず、現前で起こったことを素直に事実として認めて、そこからスタートすることである。スプーンが曲がったのは疑いもない事実なのだから、それを前提として議論を始めようではないか。 これに対する東京工業大学の桶谷繁夫という金属学の専門家は真っ向から反対の意見を唱える。 指でこするだけでは鉄は曲がらない。タネはわからないが、奇術に決まっている。 それに対し著者の木村龍治氏は桶谷氏の議論に説得力を感じる。 自然科学は、宗教的な信念ではなく

    木村龍治氏再録 - 我が九条
  • 間違っている論理展開 - 我が九条

    間違っている論理展開によって人びとは容易にだまされる。ここでは具体例を挙げて間違っている論理展開について考えたい。人をだます時には論理展開の約束事を破って己が望む解を導き出す。そしてそれは一見論理的であるだけに容易にだまされてしまう。この稿をそうするに当たっては以下のエントリを参照した。「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか。非常に勉強になったので私自身のメモのために自分流に事例を置き換えて考察したい。 まずは間違っている帰納的論理展開。帰納的に論理を展開し、解を導き出すには「適切な事例の選択」が必要である。以下は恣意的な事例選択により、間違った解を導き出した例。 うらやましいほど優雅に生きた平安貴族も、じつは短命でした。貴族の代表である歴代天皇の寿命を見てみると、平安前期には54歳だったのものが、中期には44歳、後期には33歳とじつに

    間違っている論理展開 - 我が九条
  • 私が主人公だ - 我が九条

    この前同僚の講師と話していて、物知りの生徒の話になった。「○○はこれについて『これは××だよ』とか言ってくるんですよ。『よく知っているな』と言っておきましたけど」とM先生は言う。私はちなみにその生徒に対して「要らんこと言わんでええ」と言った。自分がいかによく知っているかという知識をひけらかしたいのだが、生徒の知識をひけらかすことなど期待していない。どうせ私が知っている話しかしないのだから。6年くらいになると、オタクの中には詳しい話をする生徒もいる。こういうのは重宝する。しかしこちらが求めていない知識を延々と話す生徒にはもちろん「要らんこと言うな」の一言である。 生徒は「私が主人公」と思っていたりする。「一人一人が主人公」という価値観を教えられているからだろう。しかし集団指導の場ではそれでいいのだろうか。 学級崩壊の起こり方は、クラス全体が教師に反抗することでのみ起こるのではない。数人の生徒

    私が主人公だ - 我が九条
    mickoh
    mickoh 2006/10/02
    >当てられてもいないのに答えを言うのが結構いる。
  • 大学で学ぼうとすること - 我が九条

    大学での講義に何を期待するだろうか。自分の今までのパラダイムを壊し、新たな見方を示せること。私の場合それだった。私はかなり頭の固い頑固な人間で、どちらかといえば既知の事象を再確認することが好きである。そのほうが圧倒的に楽だからだ。しかし大学の講義ではそれではいけない。職務怠慢だ、というわけで、精いっぱい今までのパラダイムを崩すような講義を心がけている。あまりに専門に立ち入っても、私が主として担当するのは一般教養なので、その辺はほどほどにしなければならない。前にアップしたアイヌ史の一連のエントリはその意味で私の最も主要な一般教養での持ちネタだ。 しかし私もそうだが、思考力を使いたがらない面倒くさがりは既知のパラダイムを壊されることを嫌う。私も年を取り、仕事も忙しくなって、特にそういう傾向を強めてきたのだが、それは端的に言って思考力の老化である。40歳になったばかりで老化するのも情けない限りだ

    大学で学ぼうとすること - 我が九条
    mickoh
    mickoh 2006/09/29
    耳が痛い
  • 三年生 - 我が九条

    今年の三年生はすごい。国語の成績が上がらないため、今年から教科書を使うことになった。今まで使っていたプリントは提携塾から提供されたものだったが、楽しく勉強をする、という側面が強く、国語の読解力に資するかどうかは疑問だった。 ○ページを開けるように指示しても、実際に開けているのは半分強。半分近くは別のページを開けたままぼーっとしている。中にはテキストを開けていないものも。要するに人の指示を聞くという習慣がついていないのだろう。例年数人はいるが、それは放置せざるを得ない。なぜなら集団指導では、その構成員一人一人が基的生活習慣を付けていることが最低限の条件だからだ。基的生活習慣が付いていないものが混ざると、その教育効果は著しく低下する。その数人に足を引っ張られるからだ。一人の指導者の言うことを守ることが集団指導の最低限の条件である。それができないのであれば、個別指導をせざるを得ない。 現在の

    三年生 - 我が九条
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