小田原城天守閣の年間有料入場者数が、15年ぶりに40万人台に回復した。バブル経済の崩壊後、一時は29万人にまで落ち込んだが、2005年度以降は30万人台で増加傾向に転じていた。「小田原城のアイドル」だったゾウの「ウメ子」を昨年9月になくし、客足の推移を不安視していた市は、朗報の要因を「レジャーの安・近・短志向、戦国武将ブーム、ETC(自動料金収受システム)割引などの相乗効果ではないか」と分析している。 小田原城は1703年の大地震でほとんどの建物が倒壊・焼失した。天守閣は1706年に再建されたが、1870年の廃城を契機に解体された。 現在の天守閣が、鉄筋コンクリートで外観復元されたのは1960年5月。この年度の入場者数は53万人で、63年度は最高の58万8740人を記録した。この後は40万~50万人台で推移したが、バブル経済崩壊後の95年度に40万人台を割り込む38万7400人に減少。
織田信長に仕えた戦国大名、筒井順慶の居城だった筒井城跡(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半に埋め戻されたとみられる堀の遺構が見つかり、市教委が11日、発表した。城の取り壊しを命じた信長の「破城令」で天正8(1580)年に埋められたとする当時の文献の記述を裏付けており、市教委は「信長の破城政策を知る上で貴重な発見」としている。 堀の跡は、城主の館とみられる場所付近で確認。深さ約2・5メートル、幅約6メートルで、断面がV字形の「薬研(やげん)堀」だった。当時の神事で用いられた「かわらけ」と呼ばれる素焼きの小皿など、100点以上の土器も一緒に出土。市教委は、筒井城を廃絶する際の祭祀(さいし)で用いられ、堀とともに埋められた可能性が高いとみている。 筒井城は室町〜戦国時代の大和国の重要拠点。興福寺(奈良市)の僧侶で順慶とも親交があった多聞院英俊による「多聞院日記」の記述によると、信長は天正8年に郡
大阪狭山市教委は28日、狭山藩・北条氏の陣屋跡(同市狭山4)から、戦国大名・北条氏が多用した築城技術「障子堀」状の遺構を確認した、と発表した。関東で勢力を持った北条氏の城以外での確認例は少なく、市教委は「築城技術を知る上で貴重な資料」とする。現地説明会は開かない。 障子堀は、侵入者の足場を悪くするため、堀の底に段差を作るように掘り下げる技術。市教委が、陣屋の南表門周辺(南北10メートル、東西9メートル)を掘り進めたところ、堀(幅約4メートル、高さ約60センチ)の底部分に、約15センチの段差があるのを確認した。 市教委によると、狭山藩主は北条早雲の末裔(まつえい)が跡を継ぎ、陣屋は1643年頃に完成。古地図などから、障子堀は当初から作られたとみられ、市教委は「北条氏伝統の築城技術を採用した可能性が高い」とする。 北条氏に詳しい神奈川県立歴史博物館の鳥居和郎学芸員(戦国史)は、「北条氏が築城し
大阪狭山市狭山4丁目の狭山藩陣屋跡の発掘調査で、陣屋の南表門近くの堀が、底に凸凹がある「障子堀」状に築かれていることが確認されたと市教委が28日発表した。戦国大名の小田原北条氏が敵が攻めにくいように多用した工法で、市教委は、北条氏の流れをくむ狭山藩が伝統の築城技術を採用したとみている。 住宅建築に伴い約90平方メートルを調査したところ、幅約4メートル、深さ約0・6メートルの堀があり、堀の底に、畝のような高まりが東西に2本走っているのが確認された。市教委は、陣屋が完成した1643(寛永20)年前後に掘られた可能性が高いという。 攻め寄せる敵の動きを食い止める障子堀は戦国時代、小田原北条氏がよく使った工法。関東では多く見つかっているが、西日本では大阪城や小倉城など数例という。 狭山藩は、1590(天正18)年に豊臣秀吉に滅ぼされた小田原北条氏につながる家系。今回見つかった遺構は戦国時代の
騎西町は、騎西城跡(同町根古屋)から発掘された、金属を加工するのに使われたとみられる陶器片から、金が検出された、と発表した。陶器の製造された時代から、十五〜十六世紀の戦国時代に同町内で金が加工されていた可能性が高いといい、全国的にも珍しい発見という。 (池田宏之) 陶器のかけらは、一九八七〜八九年の城跡の発掘で出土した。戦国時代に金属を熱して溶かすために使われた土製容器「坩堝(るつぼ)」などのかけらとみられ、同町教育委員会が、山梨県立博物館に鑑定を依頼。顕微鏡やエックス線による鑑定で、最大で直径〇・四ミリ程度の金が多数付着していることが確認された。 同町内では、現在までに純度の高い金を使った貨幣のようなものや、金箔(きんぱく)をはった馬用の武具などが出土している。戦国時代に金が加工された形跡が見つかったのは、石川県の七尾城跡、山梨県の甲府城跡と勝沼氏館跡に続き四例目という。
騎西城跡から見つかったるつぼの土器片。わずかな金の粒が付着しており、金工房の存在をうかがわせる貴重な遺物となった(山梨県立博物館) 埼玉県騎西町の教育委員会は、騎西城跡(同町根古屋)に金工房があった可能性が高いと発表した。発掘された戦国期の土器片が金工房で使っていた道具と判明したため。これまでに金工房が戦国期の城館跡で発見されているのは七尾城跡(石川)、甲府城跡、勝沼氏館跡(ともに山梨)の全国3例のみで、町教委は「大変珍しい例」と話している。 町教委によると、騎西城は室町時代中期の康正元(1455)年ごろに築城されたとされる平城(ひらじろ)。戦国時代には上杉謙信と北条氏康、氏政父子の攻防戦の前線になり、たびたび激戦が行われたという。 金工房で使ったとみられる道具が見つかったのは、城内の南端部分。金属を溶解させるときに使用する「るつぼ」として使われた戦国期の土器片など計8点が、昭和61年〜平
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