172 Posts, 277 Following, 1.66K Followers · Stay-at-home dad. Expect a mix of infosec (plus privacy and safety), 3D printing, and some US politics. You're probably following me because of my old job.
![Justin Schuh (@jschuh@infosec.exchange)](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/1fa7a26091663fd72d724b7b8a9fa3e7815d4366/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fmedia.infosec.exchange%2Finfosecmediaeu%2Faccounts%2Favatars%2F109%2F303%2F105%2F401%2F484%2F789%2Foriginal%2Ff374e69a0d2d34e5.jpg)
少し前の話ではあるが、所謂「ニセ科学」問題に絡んで、「科学」と「宗教」についての議論があった; http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070106/1168076907 http://d.hatena.ne.jp/rna/20070108/p1 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070108#p1 これらの議論とは直接は関係ないのだが、前々から思っていたことを言葉にしようと思う。〈信じる(believe)〉という動詞の奇妙奇天烈さ。こういうことは哲学ではとっくに議論されているのだろうけど、生憎分析哲学には疎いので、御存知の方は御教示されたい。〈信じる〉という動詞は如何にして使用されるのか。これも充分に変な文だとは思うが、 This is a pen. と言ってみる。これはペンがあるという知覚された事実をそのまんま述べている文だといえる。
This webpage was generated by the domain owner using Sedo Domain Parking. Disclaimer: Sedo maintains no relationship with third party advertisers. Reference to any specific service or trade mark is not controlled by Sedo nor does it constitute or imply its association, endorsement or recommendation.
モチベーションに関する最も代表的な理論の中でマズローが提唱した欲求段階説という理論があります。 マズローは、人間の要求を5つに分類して、低い欲求が満たさせると、より高い欲求が生じてくると唱えました。 その5つの欲求とは・・・ 第1の欲求は・・・生理的欲求 第2の欲求は・・・安全の欲求 第3の欲求は・・・社会的欲求 第4の欲求は・・・自尊の欲求 第5の欲求は・・・自己実現の欲求 ※第1の欲求が一番低い欲求で、第5が一番高い欲求という見方をします。 それぞれの欲求をもう少し詳しく見てみましょう! 【生理的欲求とは・・・】 身体を維持するための基本的欲求であり、食べ物、水、空気、睡眠、休息など。つまり生きていく為の最低限の欲求です。 【安全の欲求とは・・・】 安全や安定した状態を求め、危険から自己を守りたいという欲求です。 【社会的欲求とは・・・】 集団や社会に所属して、そこで愛情を受けた
女の子の部屋に行って壁に架けてあるのが動物写真のカレンダーなんかだったら害がなくていいのですが、ラッセンの絵が貼ってあったら僕は「うわ、趣味悪いな」と思わずにはおれないでしょう。決して「この子は自分とは好みが違うんだな」ではない。口では「僕とは好みが違うかなぁ」と言うかもしれないけど、実際には「趣味が悪い」と思うのであって「自分と違う」と思うのでは絶対にない。 ある作品なり何なりを良いと思うかどうかは人によって違いますが、それが人気があるかどうかということと同様に、それが優れたものであるかどうかということもまた別の話です。「優れているかどうか」という評価も人によって差があることは確かですが、それはある程度までであって、完全に相対的ではありません。つまり、駄目なものがあり、駄目なものを好む人がいる。 趣味の悪さを指摘されると「自分の価値観を押しつけるな」などと言う人がいるわけですが、そうでは
God is dead. -Friedrich Nietzsche, The Gay Science, section 108 There are two ways to slide easily through life; to believe everything or to doubt everything. Both ways save us from thinking. - Alfred Korzybski No price is too high to pay for the privilege of owning yourself. -Friedrich Nietzsche We are always in our own company. -Friedrich Nietzsche, The Gay Science, section 166 What is done out
ロールズの正義論-『正義論』段階- ・ロールズ以前の状況として一般に言われていること 価値自由(価値相対主義) ・『正義論』の構成 第一部 原初状態で採用される戦略と正義の二原理を選ぶ理由(社会契約論) 第二部 現実の社会制度と実践を巡る一連の問題に対する自分の正義論の適用について 第三部 正義の概念の実行可能性 ・特徴的方法と内容 望ましきこと 実行可能なこと 両方を顧慮する 熟慮された正義判断のよる導出 と 反照的均衡による検証 正義の二原理に適った安定的な社会・政治制度を社会契約論という装置を用いて導き出す。 ・社会契約論 ホッブス、ロック、ルソーのような古典的契約論の衰退 ロールズの問い 原初状態(自己の利益に関する判断を遮る無知のヴェール) の下で何を選ぶであろうか。 正義の観点から見てもっとも望ましいものを選ぶ 「公正としての正義」 選択主体 正義感覚 相互無関心 物資の欠乏
本人が、自分で自分のリアリティを扱えなくなっている*1。 社会契約という観点から言えば、交渉主体としては対等だから、「当事者なんぞ知るか」というのは当然。このレベルでは、語り手の属性は何でもいい。わざわざ特別に考える必要があるのは、社会的に規定された語りのポジションの非対称性(参照)。 自分で自分のリアリティを扱うのは、精神分析の面接技法を社会的場面に持ち出したようなもの。左翼活動家は、(社会正義という)意識レベルのアリバイをクライアントの口実として共有してしまうから駄目。否認的アリバイの共有をしているだけ。社会参加の継続と、逃避の継続が同じ形をしている。 「自分は○○問題に取り組んでいるから、それで社会正義の口実がある。だから自分の内的葛藤や社会的責任については、もう分析的に考えなくていいんだ」――これは最悪の逃避。自分の差別性や暴力には無頓着であり得る。▼そうしたものは、分析的な当事者
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
信用と信頼の違いと言うことについての各人が考えているニュアンスと言うのは微妙に異なると思うけれど、この二つは似て非なるもので、どちらかがあれば良いものでも無いと思っています。ちょっと検索してみたけど、人によって解釈が全然違うね。と言っても言葉の意味が逆になるだけなのがほとんど。中にはどちらかからはじまり、どちらかへ昇華していくもの、ってのもあったけれど。 いずれにしても、信じるには2種類あって、大雑把に言うと、全部を信じることと、部分を信じることに分けられるみたい。 人を信じることは自己判断で、その判断が間違っていたからと言って「相手が自分を裏切った」と思うことは自分の判断が誤っていたことに対する言い訳にしか過ぎないのはわかっているけれども、その自分の判断を含めて「信じたい」から信じている。だから、裏切られるのことを想定しつつも、「それはないはず」としてその人の全部を信じる、と言うのが僕に
犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 論理実証主義は、経験論にもとづいて形而上学を否定し、実験や言語分析によって厳正さを求める手法である。そこでは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は聖書のような扱いを受けていた。法実証主義は、この手法をそのまま条文解釈に取り入れようとする。科学的三段論法においては、「AならばBである。BならばCである。よって、AならばCである」という推論がなされる。法的三段論法においては、「AならばBであるべきである。BならばCであるべきである。よって、AならばCであるべきである」という推論がなされる。 ウィトゲンシュタインが語り得ぬものとして挙げた種類のものとして、倫理や宗教、芸術に関する命題があるが、これらはわかりやすい。一見して超越論的な事項だからである。これに対して、論理に関
昨年、フランスのライシテ(非宗教性)について書き忘れていた。フランスでは日本同様信教は自由であるが、同時に憲法で「非宗教性」が明記されている。端的に言えば、フランス国家はまったく諸宗教から独立していなくてはならない、ということであり、そのことから公共病院や公教育において、宗教性が厳格に排除される。そこで、昨今の問題となっているのが、イスラム教徒の女子学生のヘッドスカーフだ。単純な話では、学校ではスカーフをしてはいけないということで、それに反対する生徒が退学処分にされたりした。この問題はイスラム教徒から猛反発を受け、社会問題になったのだが、年末シラク大統領は法制化を決断した。 ニュースは、仏国家功労章を受章した山口昌子を抱える産経のニュース「公立校のスカーフを禁止 宗教色排除で仏大統領」が、国家寄りではあるものの、適切だろう(参照)。 フランスのシラク大統領は17日、大統領府で国民向けに演説
前の記事←「情報学講義」目次→次の記事 世の中にはさまざまな学問があります。法律学、経済学、生物学、化学…。そういう中で、「情報学」とはいったいどういう学問なのでしょうか。今回の講義では、情報学がどういう視点でものごとをとらえる学問なのかということを考えていきたいと思います。 ・くだもの情報問題 右の写真を見てください。みかん一個と、リンゴ一個、ぶどう一房が書いてありますが、全部で何個でしょうか。 とりあえず、普通に考えたら、3個ということになるのではないかと思います。(ちなみに実際に写真に映っているのはオレンジです) でもですね、スーパーや八百屋でぶどうを買ったことがある人ならわかると思いますが、ぶどうって買ってくると、いくつかが房からこぼれてきます。では、下の写真のように3粒がこぼれてきたとすると、全部で何個でしょうか? ここで、二つの考え方があるでしょう。一つは、こぼれたぶどうを無視
前回から1か月。4月に「ハイエク調べてまた書く!」と言って、その宿題感にこだわって、本読みに必死になり過ぎておりました。本いくら読んでもどうしても、 ボクはハイエクタンに惚れることが出来ませんでした。 宿題になってった経緯はhttp://d.hatena.ne.jp/YOW/20070425/p1の真ん中らへんにあるよ。(:「日本国憲法と法の支配」について調べたもの) ↑つか、真ん中だけじゃなくって上から下まで、自由主義で先進国で近代化社会に住んでいるヒトは全員、読んでほしー。*1 んで、その日付け分で、調べててぶち当たった 「民主主義を貫徹させないがための、『法の支配』の仕掛け」 というハイエクによる「法の支配」の一文にずっとこだわっています。次回続きでハイエクからちょっと離れて「民主主義」問題やるつもりなんですが。ただ、こだわって、ハイエク著作の著述追いかけてても、個人的にしゃーないよ
月曜日は「第一の習慣」の日です。ここでは「主体性を発揮する」ために日常に導入することのできるテクニックについて紹介していきます (Update: おっと。出先からの更新に失敗してました。火曜日にアップ)。 フランクリン・コヴィーの「7つの習慣」では、主体的な行動をするためには Self Awareness 「自覚」、Imagination 「想像力」、Conscience 「良心」、Independent Will 「自由意志」の4つを意識する必要があると説いています。今日は自由意志という話です。 Independent will の訳語が「自由意志」というのはちょっと語弊があります。というのは Independent には「自立した」という意味もあって、「自由」とはちょっとずれているからです。 この自立というのがちょっとやっかいです。飲み屋で上司の不満をこぼすとき、私たちは「自由に」発言
計量社会科学入門@統計数理研究所 大先生の講義がいちまんえんで聞けるというのでいってきたよ。大先生は後半戦にならないと出て来ないらしいよ(泣。 初回である本日の講義は ほぼ「ガイダンス」だったわけですが、「本筋」がどこにあるのか たいへんわかりにくいものでありました。 ごにょごにょいいすぎ。 いいわけしすぎ。 「これはあまり関係ないのですが」というなら、関係ない話はしない。 「細かい話なので忘れてもらっていいのですが」というなら、細かい話はしない。 「本筋から外れますので」というなら、本筋から外れた話はしない。 「よく知らないんですが」というなら、よく知らない話はしない。 ──あなたのちょっとした勇気で 沢山のひとの命が救えます。 俺は途中 何度も睡爆しそうになったよ。 あとから(=帰宅車中にて)振り返ってみたところ、おおむねこのような話を「本筋」としたかったのだろうと推察される。 ■メモ
最大多数の最大幸福 † この言葉は,ベンサムの最初の著作『政府論断片』(1776)の中にあり功利主義の代名詞のようになっているが,もとはイタリアのベッカリーアの『犯罪と刑罰』の英訳(1767)からとったもの。ベンサム自身述べているように同様の考えは,J.プリーストリの『統治の第一原理と政治的,市民的,宗教的理性の本性について』(1768)の中にもある。 ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」の原理の内実は,「快楽や幸福を生むものが善であり,苦痛や不幸を生むものが悪である」,「社会の善は,その構成員の善の総計である」,「道徳は,人間性の客観的法則によって決まる」,「快楽と苦痛は数学的に計算可能である」,「個人の快と苦の感受能力は等しい」といったものである。 快苦を数学的に計算できるという考えからも明らかなように,ベンサムが目指したのは,ニュートン物理学のような客観的で普遍的な道徳
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く