表紙のみ● ■in media 新聞など専門誌以外の記事 出した本 mybook ■FTV放送 記録 02年4月10日 BOx13 17日 BOX12 デザイン・ヌーブ 「百客」 藤村龍至+ベラ・ジュン「百棚」 アニメ 内 各種音楽へ ■フォトコラ・現在非公開 佐藤敏宏 千万家01 千万家02 BOX11 BOX12 BOX13 宮本佳明 sohoゼンカイハウス 渡辺豊和 西脇古窯陶芸館 IMペイMIM ヘルツウォークドムーロンプラダ 太田浩史 DUET ル・コルビュジェちゃんディガール 坂本一成 SA構造模型 南泰裕パークハウス 松川昌平砺波美容院 八重樫直人 百窓の家 佐藤敏宏フォトコラの数々目次へ 0+1内 my写真 angkor wat アンコールトムなど メソアメリカ巡り チベット チャンディガール 五十嵐太郎さん撮影 my建築 ■泌尿器科医 入澤俊氏 (しゅんし)先
2011‐03‐26 26 653-0022 1-11-4 Phone 078-681-6231 Fax 078-681-6232 3 Kawaraban Namazu ( ) 1 ( ) ( ) 1 ( ) ( ) < > < > < > < > < > < > ( ) ( ) < > ノミトビヒヨシマルの独言ノミトビヒヨシマルの独言ノミトビヒヨシマルの独言ノミトビヒヨシマルの独言 ( ) ( ) ( ) ( )
〔 市民団体、震災復興、<問い>をたてる 〕 第1回てつがくカフェ「震災と文学『死者にことばをあてがう』ということ」レポート 2011年6月18日(土)「考えるテーブル てつがくカフェ」の第1回目が開催されました。 「震災と文学-『死者にことばをあてがう』ということ」をテーマに、3月11日の震災のこと、そして今それぞれが感じ、想うことを語り合いました。 マインドマップ(作成者:小野寺 健) トピックス 2018.03.10.Sat シネマてつがくカフェ第65回「『猿とモルターレ』映像記録から“継承”を考える」 今回は、映像作品を観て思ったことを語り合う「シネマてつがくカフェ」です。「3がつ11にちをわすれないためにセンター」が企画する展覧会「星空と路–資料室–」の関連企画として、『猿とモルターレ』の映像記録を上映し、 “継承” レポートを見る 〔 トピックス、市民団体、<問い>をたてる 〕
震災語る哲学カフェ 対話を重ね考え続ける場(1/2ページ)2011年6月1日11時10分 渡部純教諭(左)の進行で開かれた「てつがくカフェ@ふくしま」=福島市置賜町 ファストフード店で開かれた「仙台哲学カフェ」=仙台市宮城野区 被災者を前に、哲学は有効か。東北など全国に広がる「哲学カフェ」と呼ばれる場で、東日本大震災をテーマにした議論が始まっている。体験や意見を語り、対話を深め、未曽有の震災と向き合おうとしている。 ■「なぜ生き残ったか」 JR福島駅近くの多目的スペースで21日、第1回となる「てつがくカフェ@ふくしま」があった。テーマは「いま、〈ふくしま〉で哲学するとは?」。参加者は参加費200円を払い、コーヒーを手に着席した。 「こんなテーマで始めたくなかったんですけど」 主催者の一人、小野原雅夫福島大教授(倫理学)が切り出した。もとは3月下旬、「〈ともだち〉とは誰か?」とのテーマで初開
2024.01 << 1234567891011121314151617181920212223242526272829 >> 2024.03 去る2月16日(土)、4回目となる手記執筆者の集いが無事終了いたしました。 総勢10名ほどの小規模な会となりましたが、これからの「執筆者の集い」の意味、そして、「記録しつづける会」として19年目、20年目になにができるのか、喧々諤々議論が行われました。 昨年から、事務局長の高森が中心となって、東日本大震災の震災アーカイブに関する場で、記録しつづける会の活動を報告させていただいております。 そのようななかで、「では、いまの記録しつづける会が行う必要がある活動とは何なのか」ということを、考える時期が来ているように思います。 20年目に向け、執筆者のみなさまのお力を借りて、ひとつの形にしたいと思っています。 詳細が決まり次第、ブログと郵送にて、ご連絡させ
◆東日本大震災後の暮らしや、防災・減災、被災地復興にかかわる様々な人・仕事を伝えるフリーペーパー「東日本大震災を乗り越える親子の記録・こざかなのみみ」第3号が完成致しました。これからの社会を担う子供たちが、生まれ育った町や自らの将来に興味関心を得られるよう内容を吟味し、親しみやすいイラストや漫画を添えた構成となっておりますので、是非ともお手に取ってご覧頂きたく存じます。 ~主な内容~ 1)防災・減災、被災地の未来:震災体験記(気仙沼編) 2)ぼくたち・わたしたちにできることってなんだろう? :先輩の体験に学ぶ災害ボランティア活動 3)暮らしを支える人・仕事 :動きの専門家・理学療法士による 応急仮設住宅のバリアフリー化に向けた取り組み(石巻編) ◆創刊時から継続的にご支援・ご指導頂いておりますライオンズクラブ国際協会様をはじめ、全国各地のサポーターの皆様、そして、今回、55000部もの配布
293 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2011/03/16(水) 10:29:18.71 ID:YNWO8VNqo ~ 上条の部屋 ~ 上条「さてと、そろそろ飯にするかインデックス」 禁書「うん! スフィンクスもこっちおいでー」 スフィ「シャー!」 禁書「す、スフィンクス? とうま、なんかスフィンクスの様子が変なんだよ」 上条「殺気立って、どうしたんだよ? ……ん?」 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ! 上条「う、っと、おおおおお?!」 禁書「なななななななにこれ!」 上条「地震だ、それもかなりデカいぞ! テーブルの下に潜れインデックス!」 禁書「うん!」 グラグラグラグラ ガタガタガタガタガタ………… …………シーン 上条「おさまった、のか?」ドッコイショ 禁書「とうま大丈夫?」ヨッコラセ 上条「俺は大丈夫だ。インデックスとスフィンクスも大丈夫
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更新履歴 このサイトの目的 震災は突然襲ってくるもので、地震大国に住んでいる以上、避けられません。 まず、震災を知ることを起点に、防災意識や防災対策を考えるきっかけや、時が経つと風化してしまう防災意識をつなぎとめるためにも、このサイトを立ち上げています。震災情報や被災時の対処法等は常に求めており頂き次第、随時掲載させて頂きますのでお気軽に情報をお寄せください。 震災関係検索
Tweet 2011年3月11日に発生した東日本大震災と大津波、またそれに引き続く東京電力福島第一原子力発電所における事故は、かつてなく深刻な事態を引き起 こしている。無数の生命が失われ、生活が破壊された。歴史学研究会は、犠牲者の方々に哀悼の意を表し、被災された方々にお見舞いを申し上げる。同時に、歴 史学の担い手としての社会的責任の自覚に立ち、以下の見解を表明する。 一、地震・火山噴火等の災害をめぐっては、自然科学だけでなく歴史学の分野においても、近年、研究が進んでいる。しかし、今回の巨大地震・津波において は、貞観地震をはじめとする過去の地震・津波の教訓が十分には生かされず、被害を大きくする一因ともなった。また、スマトラ沖・中国四川省・ハイチなど世 界各地で起きた地震・津波が甚大な被害をもたらしたことも記憶に新しい。歴史学研究会は、災害をめぐる歴史研究の成果の社会への還元に十分寄与して来
県では、平成23年3月11日に発生した大地震とそれに伴う巨大津波、その後断続的に発生した余震による大災害からの復興を進めるため、「岩手県東日本大震災津波復興計画 復興基本計画(案)」を策定しました。 この計画案は、岩手県東日本大震災津波復興委員会等における専門的な審議や市町村等の意見などを踏まえ、県として策定したものです。 今後、この計画案について、パブリックコメントや地域説明会等を実施し、いただいた意見等を反映させ、9月議会に計画の承認議案を提出する予定としております。 この計画の目指す姿である「いのちを守り 海と大地と共にに生きる ふるさと岩手・三陸の創造」に向けた取組を、市町村をはじめとした地域の多様な主体とともに、スピード感を持って効果的・効率的に展開していきます。 1 計画の名称 岩手県東日本大震災津波復興計画 2 計画の期間及び構成 (1)計画期間 平成23年度
東日本大震災で被災した建物を「防災モニュメント」として保存しようという動きが、宮城県内で広がりつつある。「津波や震災の恐ろしさを後世に残す必要がある」。そんな思いから、自治体関係者や学者らが調査を始めている。 南三陸町は、津波で骨組みだけになった町の防災対策庁舎を、津波や震災に関するモニュメントとして残すことを検討している。佐藤仁町長は「私個人としては、この大震災を後世に残し、心に残す方法だと考えている」と話す。 海岸近くに建てられていた3階建ての防災対策庁舎(高さ約13メートル)は、震災直後、巨大な津波にのみ込まれ、赤茶けた鉄骨だけになった。 津波到来時は、約30人の町職員などが避難したとみられるが、防災無線で避難を呼びかけ続けた町職員遠藤未希さん(24)ら約20人が死亡したり、行方不明になったりしている。 屋上では、津波が到来する直前まで、町の広報担当者が周囲の様子を写真に撮り続けてお
アパラチコラで過ごす優雅な時間 メキシコ湾沿いの入り江に面した米フロリダ州の小さな町アパラチコラ。こじんまりした海辺のホテルに宿泊し、バーで新鮮なシーフードを味わえるほか、地ビールの醸造所もある。綿花や漁業で栄えたこの町には、グリークリバイバル(ギリシャ建築への回帰)様式の優雅な住宅が散見される。数キロの沖合に浮かぶセントジョージ島には白い砂浜が広がる。
クリックして拡大する がれきの中から発見された大漁旗が風にはためく中、地震発生時刻に震災モニュメント「気仙沼グラウンドゼロ」の前で犠牲者の冥福を祈る遺族=11日午後2時46分、宮城県気仙沼市 漁業の町、宮城県気仙沼市では11日、町おこしグループが震災モニュメント「気仙沼グラウンド・ゼロ」を港近くに作り、合同慰霊祭を開いた。 主催者の伊藤雄一郎さん(43)の40坪ほどの自宅跡地で、港から約100メートル。大漁旗6枚がはためく下に芝生を敷き詰め、「GROUND ZERO」と白い文字で書かれたガラス板を置いた。周囲には養殖の網を浮かべるのに使う青や緑色のビン玉約300個が並ぶ。 大漁旗とビン玉は伊藤さんががれきの中から拾い、川できれいに洗った。「気仙沼の漁業の歴史を残したかった」と伊藤さん。 午後2時46分。集まった約15人が白のバラやキクを献花し黙とう。吉田真知子さん(71)は長男(47)を失
宮城大の三橋勇教授(観光学)らの調査チームが25日、2階建ての建物の屋上に大型バスが乗り上げたままとなっている宮城県石巻市立雄勝公民館を、被害を後世に伝える「防災モニュメント」として現在のまま残すように同市などに提案した。 高さ約12メートルの同公民館では、現在も屋上にバスが乗り上げたまま。街を壊滅させた津波の大きさを物語っており、三橋教授らは、「一部を保存し、津波の痕跡を伝える施設にすべき」と調査チームを結成した。 この日、メンバーらは同公民館を訪れ、石巻市や復興を考える地元の住民団体の代表者らと意見交換。三橋教授は、「まだ大変な状況だが、津波の痕跡を残すことを検討してほしい」と提案。同教授らは、骨組みだけになった南三陸町防災対策庁舎なども候補として検討しているという。
宮城県七ケ浜町のサッカーグラウンドに長さ約25メートル、幅約10メートルの農業用ビニールハウスが設置され、持ち主不明の写真が並べられている。 当初は町役場内に並べる予定だったが、枚数が増えたため、ハウスを張っての展示となった。ボランティアが写真を洗浄し網に張って乾かしている。関係者は「写真はざっと5万枚以上あるのでは」と話し、確認されれば持ち主に返すという。
岩見夏希さんの詩は役場のロビーに置かれ、被災者を勇気付けている=宮城県山元町で2011年6月6日、長野宏美撮影 ない--。震災後、宮城県山元町の祖父母宅を訪ねると、そこにあったはずの風景や人々の笑顔が失われていた。仙台市立木町通小6年の岩見夏希さん(11)はその衝撃と復興への思いを段ボールに記した。「まえとはちがうが 必ずいいものが 帰ってくるだろう」。段ボールの詩は町役場のロビーに置かれ、被災者を勇気付けている。震災の記憶を語り継ぐためにも、歌や書にして残せないか。町ではそんな声も上がっている。【長野宏美】 ◇役場に掲示…宮城・山元町 仙台市青葉区の都市部で両親と暮らす岩見さんにとって、祖父母が暮らす山元町は古里と同じ愛着がある。春はいちご狩り、夏はクワガタ捕り。幼い頃から、町の豊かな自然や人々のぬくもりに育まれてきた。 東日本大震災の後、祖父母らと連絡が途絶えた。「両親と私の3人で10
NPO法人映画保存協会・株式会社東京光音・株式会社吉岡映像が3者共同で立ち上げた《映画フィルム救済・ご相談窓口》です。info@filmpres.org 03-3823-7633NPO法人映画保存協会(FPS) 〒113-0022 東京都文京区千駄木5-17-3 www.filmpres.org E-mail info@filmpres.org 電話 03-3823-7633 FAX 03-5809-0370 (* FAXの場合お返事が遅くなることがあります) * 緊急のご用件の場合、営業時間外でも対応できることがありますので、時間を気にせずご連絡ください。留守番電話になっている場合は「ご連絡先(電話番号)とメッセージ」をお残しください。1〜3日以内に折り返しご連絡いたします。 * メールは件名を「フィルム救済」としていただければ確実です。受け取りましたら、必ず1〜3日以内
東日本大震災により、被災地では多くの公文書等が毀損・散逸しております。公文書等の 保全や毀損資料の救済・復元は、地域住民の生活と多様な文化の再生に不可欠であり、地方 自治の推進にとっても極めて重要であることから、その対応は喫緊の課題となっています。 そのため、全史料協では、これらの課題に対する的確な施策を実施されるよう、全国知事 会をはじめとする関係団体に働きかけを行いました。また、今後、国に対する働きかけも行 うこととしております。 なお、全史料協としても、これらの課題に速やかに対応すべく、5月26日に開催した第1回 役員会において「東日本大震災臨時委員会」の設置を決め、公文書等の保全・保存活動を一 層強力に推進していく体制を整えました。 ○要望状況 日 時 : 5月27日(金) 要望先 : 全国知事会、全国市長会、全国町村会 要望者 : 井口会長、小松副会長、西川事務局長、田辺(事務局
津波の怖さを素朴な絵で描いた紙芝居「つなみ」が脚光を浴びている。岩手県宮古市で「津波の語り部」として知られる田畑ヨシさん(86)が、昭和8年の三陸津波の体験を基に30年以上前に自作した。今にも通じる内容と、優しい語り口が、被災者の間に広がっている。(藤原保雄) 三陸津波のとき、当時8歳だったヨシさんは裸足のまま自宅を飛び出し、高台の裏山を駆け上がって難を逃れた。この37年前に起きた明治の大津波では宮古市田老地区で1859人が死亡した。生き残った36人の1人だった祖父から、体験談を何度も聞かされていたことがヨシさんを救った。 「津波が来たら、一人でもいいから高台の裏山に逃げろ。家族を気にしていたら、一家が全滅する」。緊急避難を意味する岩手弁の「津波てんでんこ」。祖父の声が今も心に響く。「ヨシ、『津波てんでんこ』だぞ」 ヨシさんは、このときの体験を昭和54年、紙芝居にした。三陸津波の恐ろしさ、
塩水につかった資料を手に取る佐々木さん。後世に伝えるため復元が急務だ=岩手県釜石市で2011年6月4日午後0時20分、長野宏美撮影 津波被害や戦災の歴史を伝えてきた岩手県釜石市の郷土資料館(同市鈴子町)で、東日本大震災の津波につかった資料が放置されたままだ。復元には文化財の扱いに慣れた人の手が必要だが、2人しかいない職員は被災者支援に追われている。館長の佐々木寿さん(50)は「今回の体験も語り継いでいきたいが、放置が長引くと復元が難しくなる」と気をもんでいる。 同館は89年に「郷土資料室」として発足。岩手県だけで1万8000人以上が死亡したとされる明治三陸地震大津波(1896年)の惨状などを伝える企画展を開いたり、子供たちに津波学習の場を提供してきた。 大震災では本館は無事だったが、資料庫内に保管されていた昭和期の民俗資料など百数十点が塩水をかぶり、昨夏にオープンした戦災資料館も津波で流さ
写真や資料の記録といえば今やハードディスクやDVDなどのデジタルメディアですが、明治や昭和の時代、一世を風靡したのがマイクロフィルムです。 100年以上は大丈夫といわれてきたマイクロフィルムですが、記録されたデータが今、再生できない危機に直面しつつあるんです。 「大阪府訓令第一号 窮民・・・・・・・・」(マイクロフィルムより) 明治22年、大阪府が出した公報紙。 当時の知事が、生活に困っている府民に米を支給するとあります。 こちらは1945年、空襲を受けた大阪市の地図。 アメリカの調査団が戦後作成した貴重な資料です。 こうした重要な歴史にまつわる文献の多くが収められているのが・・・ マイクロフィルムです。 資料保存に詳しい東大の小島先生も、マイクロフィルムの重要性を強調します。 「マイクロフィルムというのは、実は行政でもたくさん使われているんですね。戸籍とか年金の記録とか、あれもマイクロフ
津波で被災した岩手県釜石市民の体験を語り継ぐ「記憶館」をつくろう――。壊滅的な被害を受けた大町商店街振興組合の小田島圭司理事長(64)が商店街の仲間に呼びかけている。がれきの中から見つけ出した、それぞれの店の「宝物」を持ち寄って展示し、記憶を残す構想という。 「これはメガネ屋の命なんです」。レンズに傷がつき、縁が潮でさびだらけになった検眼鏡を大切そうに小田島さんはかざした。自分のメガネ店は2階まで波をかぶって全壊した。がれきの山からようやく掘り起こせたのは、検眼鏡とレジの小銭だけだった。 同商店街にあった53店舗はすべて使い物にならない。被災後、経営者の無事が確認できた店舗は26に過ぎない。 3月11日、地震後の津波警報に当初、「どうせまた、ひざまでの高さぐらいだべや」と高をくくった。周りの店主に促され、慌てて裏手の山に逃げた。振り向くと、店は軒並み波にのみ込まれた。商店街中心の交差点で三
水害などで水浸しになった古文書を再生させる「文化財レスキュー」の活動を行っている「歴史資料ネットワーク」(代表、奥村弘神戸大教授)が、東日本大震災で津波被害に遭った宮城県名取市内の学校に残された古文書保存のため、25日から現地入りする。「被災者の生活建て直しが先決」と状況を見守っていたが、現地の要請もあって実現。「古文書だけでなく、被災した人々の思い出が詰まったアルバム、住民生活に直結する役所の文書も再生させたい」としている。 歴史資料ネットワークは、平成7年1月の阪神大震災を機に、兵庫県内の歴史研究者を中心に発足したボランティア団体。阪神大震災では、副代表の松下正和・近大姫路大講師(日本史、資料保存論)らが発生約1カ月後から活動を始め、がれきに埋まった文書などを取り出して泥落としやカビ防止措置などを施し、2年近くかけて段ボール1500箱分の史料を再生させた。 21年8月の台風9号に伴う兵
東日本大震災で被災した陸前高田市立博物館から回収した資料のうち、古文書や学校関係文書などの吸水乾燥作業が25日、矢作町の旧生出小学校で行われた。作業には被災文化財の保全活動に取り組む専門家をはじめ、大学や県内各地の博物館関係者らが参加。資料の洗浄やパック詰めなどの救出活動≠展開した。この日応急処置がなされた文書は仙台市内の冷凍倉庫で保管後、奈良県内の専門機関で真空凍結加工がなされる。 市立博物館は大津波で建物が冠水し、所蔵資料の多くが水損。これらは今月中旬までに同館や県内の博物館関係者らが回収し、旧生出小に避難≠ウせた。 文書資料には歴史を物語る古文書、過去の日誌といった学校関係文書、小友町出身の学者・鳥羽源蔵による植物のスケッチ画などがある。多くは津波で海水や泥をかぶり、濡れた状態で回収されており、カビの繁殖が心配されている。 そこで、救出に向けて各地の専門家らが立ち上がった。歴史
1000年に1度といわれる東日本大震災。この大震災についての様々な情報が、国、地方自治体、事業者、個人などによって記録されています。これらの記録された情報は、これからの防災や被災地の復興を考える上で、貴重な資料であり、かつ、災害遺産として人類共有の財産ともいえるものです。しかし、これらの情報は、時間が経つにつれて散逸してしまうおそれがあり、体系的に収集・保存しておく必要があります。 国の防災機関である(独)防災科学技術研究所では、被災した自治体からの要請を受けて、様々な主体と協働で、東日本大震災に関する記録、写真、動画を収集し、著作権や肖像権、個人情報を適切に処理し、無償で利活用できるアーカイブシステムの構築を準備しています。 そこでアナログ・デジタルを問わず、アーカイブにご賛同していただける皆様からの、東日本大震災に関する写真やビデオのデータをご提供をお願いすることといたしました。 この
2004年10月の新潟県中越地震で被災した同県・旧山古志村(現長岡市)では、伝統文化も危機にさらされた。当時村長として、1000年の歴史をもつとされる「牛の角突き」(闘牛、国指定重要無形民俗文化財)の保護に奔走した長島忠美・衆院議員に話を聞いた。 --被災の後、1000頭以上の牛を助け出しました。 ◆行政の長として人の命が第一義だが、少し落ち着いた後、守るべきものがみえてきた。私たちにとって、闘牛はまぎれもない文化。それで牛をヘリコプターで運んでもらいました。 --費用は1億円以上。「文化より人に金を使ってくれ」という批判もありました。 ◆避難所、仮設住宅での暮らしが続く中、山古志に帰りたいという気持ちを大事にしたかった。コミュニティーには生業(なりわい)と、みんなで共有できる文化や歴史が必要。なくしてしまったら二度と戻らず、生活再建もできない。本当の復興は、たとえば村民が祭りを共有し笑顔
「泥こそ撤去されたが、付近の景観はほぼ震災当時のまま。家屋やマンションの補修費用の捻出に悩む住民も多い。そんなふうに見せ物みたいにして残してほしくないのに……」 地元住民からこんな声が聞かれたのは、液状化によって1m以上浮き上がった公園内のマンホールの保存が決まった千葉・浦安市。市は「被害の記憶にふたをせず保存することで市民の街への思いをひとつにしたい」と話しているのだが、実は同様に、津波が襲った宮城・南三陸町や石巻市などでも被災建造物を“遺産”としてそのままの状態で「後世に伝えよう」という意見があがっている。 雲仙普賢岳噴火の被災家屋を残す長崎の土石流被災家屋保存公園など、被災建造物を保存しているケースは全国でもいくつか見られる。だが、復旧・復興作業は始まったばかり。被災住民への理解と復旧への道筋が見えない状態では、自治体と住民の間にさらなる亀裂が生じるのではないか。 撮影■丹羽敏通 ※
8月18日(日)13:00〜 丹野祐子さん 「閖上の記憶」館内 & オンライン配信をします。 オンライン参加希望の方は memoire.de.yuriage@gmail.com まで お名前、居住地域、メッセージなどあれば お送りください。 ZOOMのURLをお送りいたします。 9月、1日・15日 閖上ウオーク 両日 13時スタート どこに行くのかは当日のお楽しみ♪ 歩きやすい格好でお集まりください。 当日の天候次第ではウオーク中止の可能性もあります。 中止の場合は映画『ふしぎな石』上映会とさせていただきます。 10月6日(日)田村弘美さん 七十七銀行ご遺族 絵本『ふしぎな光のしずく』〜けんたとの約束〜 読み聞かせ 10月20日(日)13:00〜 学校関係者の方たちと意見交換会 震災から時間がたっても、被災地を訪れる学校関係者が多い一方で、 教員の皆さんも震災を知らない世代が増えています。
東日本大震災で市域の4分の3が液状化被害を受けた千葉県浦安市は1日、液状化で1メートル以上浮き出た貯水槽のマンホールを、保存してモニュメント化することを明らかにした。松崎秀樹市長は「液状化被害の記憶を風化させないために残すことを決めた」と話している。 保存するのは、高洲中央公園(同市高洲)の駐車場地下にある耐震性貯水槽の水をくみ上げるためのマンホールで、大小2つのコンクリート製の筒と鉄の蓋が、くみ上げポンプなどととともに、アスファルト舗装を突き破り地上に飛び出した状態になっている。 貯水槽は平成8年度、災害時の飲料水確保を目的に市が1億2100万円で整備した。震災時、蓄えられた水100トンを市民に配るはずだったが、全く使えなかった。 「復興のシンボルに」との思いを込めた保存計画だが、一方で、家が傾くなどの被害を受けた市民からは「液状化を思い出すので見たくない」と、撤去を求める声もあるという
「お前はどう生きる」。冷たくなった亡きがらや原形をとどめない建物、粉じんに覆われ暮らしの色を失った風景が、3月11日以来ずっと問いかける。岩手県宮古市で東日本大震災の大津波に遭い、社会面連載「沿岸南行記」(3月26日~5月23日、西部本社版を除く)の取材で約40日かけて計約500キロを歩いた。たとえ誰もが震災を記憶の片隅に押しやってしまう日が来ても、あの日あの場所で出会った人、見聞きしたことを忘れない。その決意を胸に答えを探し続けたい。 震災当日、県議選取材で勤務先の盛岡市から宮古市に行っていた。午後3時21分。市役所4階で「黒い波」を見た。風呂おけから水があふれるように、たやすく防潮堤を越え街をのみ込む。シャッターを切り続けた。海へ戻らぬ水に囲まれ、孤立状態の一夜が明けた翌朝4時。ようやく水が引き、壊れた建物や車の残骸が占拠する街を歩き始め、11人の亡きがらに出会った。 30歳前後に見え
同展では、被災地や全国の新聞社などの報道機関が撮影した、東日本大震災の現場の様子を伝える写真のほか、手書きで製作された「石巻日日(ひび)新聞」(本社・宮城県石巻市)の壁新聞などが展示されている。 東日本大震災の地震と津波での死者は1万5千人を越え、行方不明者もいまだに8千人以上となっている。同展では、地震や津波発生時の様子や被害の状況など、新聞社のカメラマンたちが危険を顧みず撮影した写真のほか、避難所で生きる人々、福島第1原発の事故の状況とその影響、復興への希望などをとらえた作品90点を展示している。 石巻日日新聞は、1912年に創刊された地域夕刊紙。展示されている手書きの壁新聞は、同社の印刷設備が津波の浸水と停電で使えなくなり、記者たちが、新聞印刷用のロール紙を切り取り、マジックで手書きで書いたもの。震災の翌日3月12日から17日までの6日間、毎日6部を手書きで制作し、石巻市内の被災者の
東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県女川町が、町内にある3階建て鉄筋コンクリート造りの町営住宅を震災のメモリアル施設にする計画を進めている。同町によると、津波や地震災害で、実際に住民が暮らしていた施設を記念館にするのは全国でも極めて珍しいという。町営住宅は2階まで津波が押し寄せており、安住宣孝町長は「浸水したところはそのまま残し、被害の悲惨さを伝えたい。3階は資料室にする」としている。 町営住宅は同町清水町にあり、2棟が並ぶ。1棟12部屋で1部屋約80平方メートル。2棟とも記念館にするか1棟だけにするかは未定。 震災時は家族連れなど計24世帯が入居。建物は海岸から約1キロ離れているが、津波は町営住宅のすぐ前を流れる女川を通り道にして、2階の天井まで達した。窓ガラスは全て割れ、部屋の中はソファがひっくり返り、ほとんどの家具が屋外に飛び出した。 住民は近くの運動公園などに避難。死者・行方不明
東日本大震災の津波被害で休刊に追い込まれた岩手県釜石市の夕刊紙の記者たちが、新しい地域紙の製作に乗り出した。 その名も「復興釜石新聞」。震災発生から3か月の11日に発刊する。市の資金援助を受け、当面は広報紙を一部肩代わりする形でのスタートだが、1年後に地域紙としての自立を目指しており、市と二人三脚で、復興に向けた第一歩を踏み出す。 復興新聞の中心メンバーは、釜石市の夕刊紙「岩手東海新聞」(発行部数1万4000部)の記者、社員ら。同紙は津波で記者2人が死亡、市内にあった輪転機も海水をかぶって使用不能となり休刊した。3月25日に社員19人全員が解雇されて再開は困難になった。 報道部課長だった川向(かわむかい)修一さん(59)は震災後、取材活動から遠ざかっていたが、宮城県の地域紙「石巻日日(ひび)新聞」を報じた新聞記事に衝撃を受けた。輪転機がなくても、手書きの模造紙で情報を発信し続けた強い使命感
東日本大震災の被災地の状況を写真や動画といったデジタルデータで保存し、アーカイブ化する動きが本格化している。 インターネット検索大手のヤフー・ジャパンは6月1日、特設サイト「東日本大震災 写真保存プロジェクト」を公開した。「失われた街並みや風景を、せめて記録として残せないか」といった被災者からの要望を受けた取り組みで、4月から震災前後の写真を募集していた。 6月10日までに寄せられた写真は1万4000枚を超えている。地図サイト上の写真のアイコンをクリックすると、拡大してみることができる。がれきで覆われた街並みの写真に交ざり、震災前に撮影された三陸沿岸ののどかな風景も投稿されている。 □□□ 同じく検索大手のグーグル日本法人も、「未来へのキオク」と題するプロジェクトを展開中だ。6月中旬のサイト開設を目指しており、「みんなの記憶が集まれば未来を作る力になる。復興の励みにつながれば」と
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