数年前バスに乗っていたとき、こういうことがあった。私のすぐ後ろの席に男性の二人連れが乗っていた。乗るときにちらっと見たが、一人はかなりオッサンでどうやら出張か何かで福岡に来ている人らしい。もう一人は若くて、おそらくそのオッサンの案内役の地元の人。そのオッサンが連れを相手に何を喋っているかというと「福岡市がいかに田舎か」ということを熱心に説いているのだった。しかもかなり大声で。福岡が田舎である根拠としては、地下鉄の路線が少ない、ということだった(当時は七隈線もなかった)。主要道路の地下に地下鉄が走っておらず路上をバスが走っているなんて田舎だ!というようなことを熱く主張。比較として地下鉄が走っている他都市を出して、福岡のほうが田舎だと強調。でも別に地下鉄愛好家というわけでもなさそうで、ただ福岡は田舎であると言いたいだけのようだった。しかもバスは西○の独占状態だ、それがいかん、みたいなことを大声
自分を異質として少数派にしてしまうのはどうしてなんだろう。メモこれはやはり経験によるところが大きいのではないかと。子どもの頃からの積み重ねで、「あんたは変わってる」とか「気持ち悪いからこっちに来るな」とか、まあその種の否定的・排除的なことを何度も言われていたり、好きなもの同士でグループ作ったら必ず余るとか、ケンカしたら周囲は皆傍観者か相手の味方、というような経験をフォローもなしに重ねていると、「自分は他の人には受け入れてもらえない「違う」ところ「おかしな」ところ「間違っている」ところがあるのだ」と思い、またそのことを否定的に捉えるようになっても、ある程度仕方がないと思います。もちろんそこで一所懸命「悪い」と思われるところを「直した」結果、皆に受け入れられるようになったとか、成長過程でそのような認識を覆すような経験があり、自己像がポジティブなほうに修正されたという人もいると思うけど、そういう
メモなるほど。参考になる。てか2番目の文までに関してはその通り(自分に関しては。気をつけるべき項目だ…と思いつつよく忘れている)。3番目はよくわからん…あ、もしかしたら、これって「傷つきやすいこと」の理由であって1番目の文につながってるのか。だったらわかる。ただちょっと思ったのは、この種の「自分の気持ちにしか関心がない」とか「他人はその他大勢」とかって意識自体はそんな珍しいものじゃない。自分は物心ついたころからそんなものの捉えかたとは無縁だったと言い張る人がもしいたら、その人は幼い頃のことをよく覚えていないんだろうと思うし、「××歳を過ぎてからそんなことは一切考えなくなった」みたいな話もほんまかいなと思う。ただこういったある種の歪みのようなものを適宜気づいて(時には無意識のうちに)修正していける人とそれができない人がいるってこと。それも平均的な年齢相応に出来る人と出来ない人とか。この違いは
・他人が愚痴を言ったり弱音を吐いたりすることに対して「甘えるな」「大変なのはお前だけじゃない」「お前などまだ恵まれている」 他人のみっともなさや至らなさに対してむやみに厳しい。自分にも厳しいのかもしれないが、自分にだけにしといてほしい。・「自分(もしくは自分の知っている人)はこうやってきた」→「だから他の人だってできるはずだ・やるべきだ」→「できてない・やらない人は甘えている」・「他人や社会の批判ではなく自分が変わるべき」。たしかに何でも外部のせいにばかりしているのはみっともないが、行き過ぎると「嫌なことが起きるのはあなたの心がけが悪いせい」に限りなく近づいてしまう。・(ひとの生き方・選択について)「(××が基本だけど)○○もあっていいと思う」…これは私もよく使うかも(汗)。そもそも人の生き方なんて誰かが許可するもんじゃない。・「自分は気にならない」→「問題は無い」→「気にしている人はおか
■「更生」したヤンキーは要するに「勝ち組」だ 【ヤンキー先生の「オレにまかせろ」】 朝食 http://www.sankei.co.jp/local/kanagawa/061127/kng001.htm なんちゅーか。若い頃にヤンキーやってて親を泣かせ社会に迷惑をかけていた人が成人して所帯を持ったら、ちと個性的だが子どもを可愛がる教育熱心な親になったとか、真面目によく働いて職場の人たちや周囲の評判もよい、とかいった「「更生」したヤンキー」の例の一つなんだろうな。反抗的だ(もしくは「だった」)ということと道徳的であることは矛盾しない。いかにもヤンキーな怖い外見の若者がお年寄りに親切にしていたというヤンキー伝説を見たり聞いたりしたことのある人も多いだろう。そーいや私もヤンキーっぽい子たちに親切にしてもらったことあるな、十代の頃。実は世話好きな子も多いようだ。そんでもって男子も女子も家庭を大切に
http://www.nyasoku.com/archives/50395674.htmlこれはひどい。その鉄道模型が夫にとってどのような位置づけのものだったのかとか、他のものまで捨てるようになってしまった夫の現在の心境などについてのコメントが多いが、夫自身がどう思ってるという以前に、人のものを勝手に処分してしまうのは、そりゃ暴力でしょうと言うしかない。相手の所有物を勝手に捨ててしまうのはDVの一種なんだよー。watapocoさんも書かれているように、女性だったら許されるという話ではない。「それくらいのこと」ではないと思う。でも女性へのDVですらまだまだ理解が進んでいないというか、殴る蹴るは暴力だと認めやすいが、ものを勝手に処分するとか無神経なひどいことを言うとか、そういった精神的暴力に対する理解はまだまだなんだろうな。もちろん私はこの夫婦が普段どういう会話をしていてどういう関係だったのか
■最近の興味(メモ…にしては長い?) ・紀子さん第三子懐妊をめぐるあれこれ 妊娠という女性の身体に関することが即政治的に(特に今回は継嗣問題でもめている最中でもあり)あれこれととりざたされてしまうグロテスクさについてはすでにあちこちで目にしているので今さら書くまでもないんだが、「女の子だったらがっかりする人がいるのではないかと思うと心配」などとわざわざ言うのも…(そんな風に書いてる人何人かいたので) いやそんなことここに取り上げて書いてる時点で私も似たようなものか? それを「予測」しちゃう時点でひそかにそれを待ち望んでいる(女の子であってがっかりする人がいるかなあいないかなあ見てみたいといった)と言えないこともない。実際に「がっかりする」人がいるかいないかという事実問題とは別のところで、そう言うことでその人自身が「女の子だったらがっかりする人がいる」という前提を強化してしまっているわけで。
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