![Amazon.co.jp: 言語を生みだす本能(上) (NHKブックス): スティーブンピンカー (著), 直子,椋田 (翻訳), Pinker,Steven (原名): 本](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/0abefa16f89979859cedf3f0ba303714c639b8d9/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fm.media-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41Op7P3LypL._SL500_.jpg)
外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。 国語学の そとから、国語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。単一言語主義による「体制の言語」(その社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって国語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「国語」から かけはなれた言語を第一言語とするひとのための研究などではない。いかに、現体制における国語のありかたが すばらしいか、あるいは、現体制以前、つまりは歴史的なありかたが すばらしかったかという視点にたち、自分にとっては価値があると おもわれる国語をよりいっそう権威化するための研究。だから だめだと。そういう批判ができる。 国語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。 日本の文脈で「国語」というものは、ひとつの規範化さ
単純にいうと、文法学に科学的根拠を与えたこと。(と同時に言語学を歴史学から独立させた。) 科学的根拠とは文法解析に記号論という方法論を確立したこと。 その方法論というのは、基本的には、2つ 1 paradigmatic relation 2 syntagmatic relation paradigmatic relation から品詞に相当するカテゴリーを導くことができる。それ以前は、ギリシア・ラテン語文法の8品詞説など超越的な意味論的な品詞説が存在した(これは基本的にラテン語に転写するためだろうけど)。 syntagmatic relation から文法を導くことができる。 で。 こうした分析を可能とする対象となる言語というものをラングとして措定することで、言語活動の煩瑣な諸相を捨象し、かつ時間変化を原理的に静止させることにした。つまり、言葉がどのように社会に使用されるか、時代変化を遂げ
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