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2015年11月19日のブックマーク (2件)

  • [書評] コーランには本当は何が書かれていたか? (カーラ パワー): 極東ブログ

    「コーランには当は何が書かれていたか? 」という問いかけは、そのままの形で魅力的な問いだと言っていいだろう。私は井筒俊彦の翻訳でコーラン(クルアーン)をすべて読んだことがあり、そして聖書についても一応ではあるが全巻通して読み、それなりに理解はしたが、さてでは、コーランには当は何が書かれていたか? と問われたとき、私は残念ながらアイロニカルな答えしか出すことができない。それは、聖書には当は何が書かれていたか? という、自分の、おそらく青春をかけたとしてもよい問いかけがもたらした惨めな姿に近いものである。 幸いにしてアイロニーは、ユーモアが一時の気休めであるのと似て、答えではない。だから私は今でも静かにその問いに向き合う。書『コーランには当は何が書かれていたか? 』(参照)は、そうした自分の思いに添ってちびちびと、そして対話するように読んでいった。そのように読む書籍でもあった。 当初

    [書評] コーランには本当は何が書かれていたか? (カーラ パワー): 極東ブログ
  • 大竹昭子のカタリココ|2015年最後のカタリココ、高野文子さんとの濃密な2時間。

    告白しますと、高野文子さんの作品は『ドミトリーともきんす』ではじめて知りました。マンガを読む習慣がないもので、その世界にうとかったのです。「ともきんす」を読んで、こういうマンガがありうるのか!とびっくりし、過去の作品に遡ってわかったのは、彼女のほとんどの作品が「自伝である」ということです。『チボー家の人々』に没頭する少女が主人公の『黄色い』がそうなのは言うまでもありませんが、それ以前の作品も自伝の要素が強く、これまでくぐりぬけてきた記憶や意識世界がベースになっています。 ひとりの人間が、どのような過程を経て、いまある表現にいきつき、この先を進もうとしているのか。カタリココの関心はいつもそこにありますが、高野さんの作品はとりわけその興味をかきたてました。そんな次第で、新潟の国鉄官舎に育った独り遊びの好きな少女が、どのようにして従来のマンガを逸脱し、独特の世界を築いてきたのか、というのが今回

    大竹昭子のカタリココ|2015年最後のカタリココ、高野文子さんとの濃密な2時間。
    morutan
    morutan 2015/11/19
    『高野さんの作品から伝わってくるのは「憑依体質」です。何かを観察し、凝視すること』『物を意味としてつかまえ統合する以前の、周囲のものが等価に存在していた幼児の体験する感覚世界に近いです』