ピッチは庭、手本は兄 4年に1度のワールドカップ(W杯)イヤー。サッカー日本代表の中核を担うMF遠藤保仁(29)は、G大阪を元日の天皇杯連覇に導く最高の滑り出しを見せた。2006年ドイツ大会では代表に選ばれながら不出場。苦境を乗り越えた遠藤は、6月開幕の南アフリカ大会を目指し、立ち止まることなく歩み続ける。 毎朝、遠藤家の庭から子どもたちの歓声が響いた。遠藤と、7歳上の兄の拓哉、5歳上の彰弘、近所の子どもたちが加わり、ミニゲームで技を競うのだ。カバンやランドセルが近くに置かれ、通学の時刻になると、どっと飛び出した。 噴煙を上げる桜島のふもとに住む人々には、教育を重んじる伝統がある。ひとたび大噴火すれば、全財産を失う恐れがあるが、知恵や知識は残るからだ。 父、武義(62)は「子どもの好きなことを伸ばしてやりたい」と考えた。庭はいずれ日本庭園にするつもりだったが、息子たちがサッカーに興味を示す
鹿児島実で鍛えられ、昨季57試合に出場した遠藤(左)。日本代表ではW杯南アフリカ大会出場権を勝ち取った(2009年6月6日)=川口正峰撮影 サッカー日本代表のMF遠藤保仁(29)(G大阪)と2人の兄は、いずれも強豪・鹿児島実高(鹿児島)に進み、猛練習で鍛えられた。総監督を務める松沢隆司(69)の評が面白い。 ストライカーの長男、拓哉(36)は「ケガをしても隠すタイプ」。攻撃的MFを務めた次男、彰弘(34)は「黙々と頑張る」。三男のボランチ遠藤は? にやりと笑い「マイペース。休ませてくれ、と言うんだよ」。 2人の兄が鹿実に通っていた頃、松沢が自宅を訪ねると、兄たちの試合の録画ビデオを見る遠藤を目にした。「タク(拓哉)の点の取り方、アキ(彰弘)のDF裏へ抜ける動きを見て、好機を作る感覚が養われたのでは」と分析する。 入学後には、技術、戦術眼は教えることがないほど。ただ、闘争心を表に出さない。何
ジーコジャパンで代表に選ばれたが、W杯ドイツ大会で遠藤(左)の出番はなかった(右は本山、中央奥はジーコ監督、2006年2月の米国遠征で)=吉岡毅撮影 サッカー日本代表への道は思わぬ形で開かれた。 MF遠藤保仁(29)(G大阪)は1999年、20歳以下によるワールドユース選手権で準優勝した〈黄金世代〉の一員。だが、鹿児島実高(鹿児島)の頃、初めて選ばれたU―16(16歳以下)代表にほかの黄金世代の選手はいない。 96年冬、U―16代表を率いる石橋智之(54)(現愛媛・愛光学園教諭)が鹿実の練習に訪れた。南宇和(愛媛)の監督も務め、鹿実とは交流戦を行った間柄。「判断力がいい」と初めて出会ったボランチを気に入った。パスを散らしてリズムを変えられる。聞けば1年。それが遠藤だった。 この時のU―16代表は80年以降生まれが条件。MF小笠原満男(30)(鹿島)ら黄金世代の大半は79年生まれだが、遠藤は
スパイクのひもは、脱げない程度に緩く結ぶ。サッカー日本代表のMF遠藤保仁(29)(G大阪)はマイペースで、体内時計はゆっくりとしたリズムを刻んでいるようにすら思える。 2006年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会。一度もピッチに立てなかった屈辱は、MF中田英寿(当時ボルトン)ら欧州組の脇役に甘んじていた遠藤の心にもさすがに火を付けた。 大会後、J1・千葉を率いていたイビチャ・オシム(68)が代表監督に就任したのは幸運だった。G大阪との対戦を通して、遠藤の持つ試合をつくる能力を知っていたからだ。まず国内組だけで代表を編成すると、遠藤を中心に据え、もっと走ることを求めた。そうすれば技術が生きる、と。 実は、遠藤は究極のサッカーを「ダッシュしないこと」と言う。オシムの教えと矛盾するようだが、真意は効率よく動き、相手より有利な位置をとり続けることにある。オシムの「考えながら走るサッカー」を吸収し、水
遠藤保仁の“凄み”とは何なのか? 天皇杯に和製シャビ・アロンソを見た! 佐藤俊 = 文 text by Shun Sato photograph by Toshiya Kondo 元日の天皇杯・決勝の名古屋戦は、まさに“ヤット・ショ-”とでもいうべき遠藤保仁の独り舞台だった。 ほんの3日前の準決勝・仙台戦では、淡々としたプレ-で、さほど存在感を示せたわけではなかった。だが、決勝戦は2ゴ-ル1アシスト、ル-カスの先制点も起点になるなど4点すべてに絡み、獅子奮迅の活躍で、ガンバ大阪を優勝に導いたのである。 「あんなすごいヤットを初めて見た」 そう唸ったのはGK松代直樹だが、この日の遠藤はチ-ムメイトにも見せたことがないほどの“本気”といくつもの“凄さ”を見せ付けた。 その凄さとは、いったい何だったのか。シャビ・アロンソの素早い攻守の切り替えを意識した遠藤。 この日、遠藤は、いつ
2009年1月3日:1999年にナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースを思い起こしてもらいたい。誰の名前が浮かぶだろうか? 高原と永井をトップに置き、本山を左のウィングに。MFには小野、稲本、そして小笠原。導入したばかりのフィリップ・トルシエ監督の“フラットスリー”ディフェンスの左サイドには中田浩二がいた。あのラインナップは、本当に才能に満ち溢れていた。 スペインにつづいて堂々の準優勝、3年後の日韓ワールドカップ代表の基礎を築いたチームだった。 このチームの何人かの選手はヨーロッパへと巣立ち、また何人かは、ガンバの加地、遠藤、そして播戸のトリオのように時間をかけて国内で地位を確立していった。 いま、遠藤が選手としてピークに達していることは間違いない。そして、試合を重ねる毎に、日本代表への影響力が増している。 次のワールドカップでは、中村――2010年6月24日に32歳になる――に代
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く