当世風という言葉がもはや当世風ではない。
20年前のネットはこんな状態じゃなかった。 もっと平和だった。 他人の揚げ足取りやマウントに人生をかけつつ自分こそが正義だと言い張るような繊細チンピラはほとんどいなかった。 今はどこもかしこも棍棒片手に他人のスキを伺うリンチマニアで溢れている。 魔女狩りが始まったディストピアのように誰もが他人の言葉尻から間違いを見つけまいと目を光らせてる。 ネットはこんな恐ろしい場所じゃなかった。 もっと平和で優しくて人は前向きな方法で自尊心を満たしていた。 誰かを言葉の暴力で袋叩きにすることで自分の尊厳を満たそうとしているようなチンピラの住むスラム街なんかじゃなかった。
温室で育った環境勝ち組のアラサー女子の会話を見せてもらうことしか人生の楽しみがないと思うと悲しくなってくる 道楽で庶民に下っただけの保険付き女と、片や文化的に貧しい状態で育ちそのまま貧困継続してるオタク バカで不器用なフリをしてオタクを安心させてはいるけど、その実態は環境的文化的に裕福に育った金持ちの娘 俺リア充じゃないっすよオタクですよって言いつつ小器用に生きながらオタクコンテンツをペロペロなめて仲間アピールをしていく輩を見る気分と似ている 下流である現実から逃げたいのに、逃げ込んだコンテンツが一番その事実を浮き上がらせているというのが皮肉すぎる ニコ生や声優ライブを貪って酔っ払っていたいのにたまにそんなシラフになる瞬間が自分でも嫌だ 冷静になるとこいつただのおばちゃんだな、とか頭をよぎることを自分でも望んでいないのにそんな時がある はぁ、るるきゃんかわいいなぁ…
こんにちは。用件はタイトルのとおりです。 以下、ネタバレ情報を含んで語ります。未見の方はまずはお近くまたは遠くの映画館まで。 ※画像は、シン・ゴジラ|シアターリストより この記事で言いたいこと 「シン・ゴジラ」の作品世界を分析してみると、ちょいちょい「初代」ゴジラ(1954)の設定を「リアル」よりも優先させている箇所が認められます。 もっとも顕著な例が、劇中「巨大不明生物」と称されるゴジラ出現の日付が(2016年)11月3日であることです。日付を初代「ゴジラ」の公開日である(1954年)11月3日に揃えたのでしょう。その結果、現実世界どおりにこの日を「文化の日」「祝日」ととらえると、若干の不整合が生じてしまいます。 でも、そういう不整合さえも楽しくてよし。 要約:Executive Summary 「シン・ゴジラ」劇中で巨大不明生物が出現するのは、2016年11月3日(木)のことです。 1
犬童一心(右)と山内章弘氏[映画.com ニュース] 庵野秀明が総監督・脚本を務めた映画「シン・ゴジラ」が10月30日、第29回東京国際映画祭のJapan Now部門で上映され、出演した映画監督・犬童一心、エグゼクティブプロデューサーの山内章弘氏がTOHOシネマズ六本木ヒルズでのティーチインに出席。山内氏は、クランクインにいたるまでの苦労を吐露した。 ゴジラ出現当初、対応に手を焼く政府から招へいされた御用学者役を演じた犬童。「樋口さんは職人ですけど、庵野さんはアーティスト。アーティストに『ゴジラ』を頼むのは、危険だと思わなかったですか?」とズバッと切り込む。これには山内氏も、苦笑しながら「もちろん不安でしたよ」と即答し、「まず脚本が、計算すると3時間分くらいあった。単純に『短く』と思いました。討議をしましたが、ヤシオリ作戦のブロックを全部やめてしまうことも話しました。今見ると、それは絶対に
映画ニュース 2016/10/30 22:10 『シン・ゴジラ』を庵野秀明に任せるのは「不安だった」。成功の鍵は樋口真嗣とのタッグ 第29回東京国際映画祭Japan Now部門『シン・ゴジラ』のQ&AセッションがTOHOシネマズ六本木ヒルズで行われ、古代生物学者役として出演している犬童一心、プロデューサーの山内章弘が登壇。庵野秀明総監督を「アーティスト」、樋口真嗣監督を「職人」と分析した犬童が、「その才能と力が融合した」からこそできた映画だと話した。 庵野が総監督、樋口が監督を務め、巨大怪獣の出現で未曽有の危機にさらされた人々を描く本作。庵野総監督、樋口監督とも旧知の仲であり、監督としても活躍する犬童は「庵野さんと樋口さんは長い年月のコンビなので、2人でやるのはいいなと思った」そうだが、「もらった台本が、3時間分くらいあるものだった。これを1本でやると聞いて、他人事ながら『ヤバイな』と思っ
継続は力なり「継続は力なりとかよく言うよね」 「続けていくことの大切さを説いた格言だな」 「なんというか分かりきっているというか、この格言は大したことないよね」 「じゃあ、毎日一緒にジョギングでもするか」 「……『銘心鏤骨』ってことかあ」 「妙な言葉を使ってきたが、ジョギングする気はないってことでいいのか?」 ハロウィン「俺たち子供はお菓子貰ったりとかイタズラしたけれども、大人は何をやるの?」 「そりゃあ、お菓子をあげたりイタズラされたりするんだよ」 「ということは実質的に子供のためのイベントなのか」 「恐らくな」 「大人はそれだと楽しくなさそう」 「いや、大人は大人で楽しんでいるらしい」 「じゃあ、お菓子をあげたりイタズラされて楽しいってこと?」 「恐らくな」 カボチャ「あと、カボチャを何かしている記憶が」 「食べるの?」 「いや、確か食べはしない」 「カボチャって食べる以外に何か使い道
何者にもなれない俺ですら、新海誠がどっかで言ってた「身分不相応なヒットで驚いてる」的な気持ちがわかるよ いくらなんでも異常だ
浜松に住み始めて5年目。 今日は用事があり、静岡市まで行ってきました。 帰りの時間に余裕があったので、街中をぶらぶらしていたら 大学生くらいの男子の声がふっと耳に入ってきました。 曰く、 「ハロウィンって言っても、そんなに浮かれてる人いないねー」 それからなんとなく気になって気を配っていたのですが、 高校生の女の子3人くらいしか、仮装の人は見当たりませんでした。 街は結構にぎわっていて人通りもありましたが、他には カジュアルな格好の若いお父さんお母さんが連れた子どもが、 ちょっとしたアクセサリーをつけているくらい。 まぁ、そんなものかなぁ、ハロウィンっていっても…と 電車に揺られて1時間。浜松へ戻ってきたら、いるわいるわ仮装。 駅のホームを降りて、改札階に着いた途端、 仮装の集団が集合写真を撮っており、(改札に近づけず迷惑) 改札を出たと思ったら、駅前広場には傷だらけの人びとが、 あちこち
学生が文化祭でやってることって、その大半が「何かの仕事の模倣」なんだよな。しかも、全員がそれをするのに向いてるわけでも、めちゃくちゃやりたかったわけでもない。 だけどみんなで準備して、中には主に指示を出す人もいれば、言われたことだけやってる奴もいるし、でもみんな「いい文化祭にしたい」って思っててさ、当日にはお客さんを集める為に看板を持って校内を歩き回ったり、時には妙な要望をしてくるお客さんに「やってやろうじゃないの」って張り切ったり、迷うお客さんには交渉したりして、大体は楽しかった思い出だと思うんだ。 だけど、大人になって社会人として仕事をしてると、その多くが嫌々、仕方無くやってるみたいで、なんだか悲しいな。もちろん文化祭は期間限定であるとか、違ってくる要因はたくさんあるんだろうけど、きっともっと楽しくやれるはず、って、思うんだ。甘いのかな。
「君の名は。」見てきたよ。感想はもう、ひと言で、ザツい。 なんでかって考えたら、答えは多分これ。 新海誠ってさ、多くのキャラクターとか伏線を捌けないのな。 脇役を、プロットが求める台詞を言わせるためだけに動かしてる。 キャラクターが作り込まれていないから、その台詞や行動が唐突になる。 “脇役本人にとっての必然性”が見えないから、脇役が魅力的に見えない。 今回は絵としてのキャラクターデザインがしっかりしてる分余計に、脚本の上でのキャラの薄さが気になる。 これまでみたいに「ふたりの恋」を際立たせるためだけに最小限の脇役を配置するだけならそれでもいいのだけど、 これだけ多くの登場人物が動く物語となると、そうはいかない。けっこうな尺を彼らが埋めるんだから。 その上、脇役に尺を取られる分、主役の「ふたりの恋」さえ十分に描けてない。 「紐」という「結び」の象徴、「夢だから忘れる」という仕掛けも、 同じ
Happy boo day! お菓子をちょうだい!お菓子をちょうだい! で、お馴染みの今日はハロウィーンよね! 昨日は渋谷の街も、 怪我した人とか、ハーレークインとか、イケメン満月狼とか、 いろんな人がいて賑やか。 コスプレだらけで、普通の格好の人が浮いちゃうわ。 警察の人に道尋ねたら、 すみません、私これコスプレなんです、ってさ どうりで、ポリスウーマン、セクシーおへそ出てるわけだわ! しかし、お巡りさんも多くて渋谷のあのスクランブルは まるで疾風のようにザブングルだわ! ただならぬ厳戒態勢というか、警官多いわねって感じ。 ハロウィーン警察の人も何人か居たわよ! ハロウィンじゃなくて、ハロウィーンなんだって! 私はそんな中、 ハロウィーンパーリーで アップルボビングに挑戦! 樽桶に水張ってそこにリンゴを浮かべるの。 で、リンゴのへたの部分を歯でくわえて取るゲームなの。 アガサクリスティの
性的魅力がある容姿に優れたJK女達が目標に向かってキラキラ輝きながら頑張る青春作品だから嫌いだ。 アニメで描写されないところで、容姿に優れた男との性春を謳歌しているのだろう。他校の男子から告白されているのだろう。 障碍者用のトイレでセックスをしているのだろう。 校舎の裏で容姿に優れた男のものを舐めているのだろう。 体育倉庫でセックスをしているのだろう。 カラオケ店でセックスをしているのだろう。 空き教室でセックスをしているのだろう。 休日は彼氏の部屋で朝までセックスしているのだろう。 アトピーゾンビのような容姿の優れないものを馬鹿にし、見下し、優越感に浸るのだろう。 そしてその楽しくて美しい思い出を持って社会人として活躍するのだろう。 アトピーゾンビがアニメに出てくることはない。 なぜなら容姿が醜いからだ。 ドラマでも映画でもアニメでも小説でも、醜いものは創作物から排除される。 人間は美し
シン・ゴジラブームが落ち着いたので、そろそろ良いかと。 幼少期から、ゴジラの夢を見る。 ゴジラ(の姿は見えないが、何故かゴジラだと認識している)街は破壊され、母親と離れ離れになる夢だ。 電柱は倒れている。地面は割れ、そこに落ちないようにして歩く。 みんなで走り、みんなで逃げて、お母さんと叫んで、夜中にそこで目が覚める。とてもリアルで恐ろしい夢。 年々見なくなっていたが2011年の3月を境に、その夢が復活した。 実は、その前にも頻繁に見ていた時期がある。新潟県中越地震が起きたときだ つまりゴジラが街を破壊していく夢は、地震の夢なのだ。。 東日本大震災も新潟県中越地震も経験していないのに、何故そんな夢を見るのか。 心当たりは一つしかない。まだ小学生に上がる前の阪神淡路大震災の記憶だ。 おぼろげにしか覚えておらず、経験者として語るのも申し訳ない。 ただし夢の中の光景はまぎれもなく地元の光景だし、
もう完全に脱・人間の流れが出来ちゃったよね。そのうち一部の人間はロボットになるよ。本当に凄い時代に生まれたもんだ。 どこから話せば良いのか皆目解らないが、まずは生命の進化を考えるのが良いかもしれない。海で産まれた生命体が、陸に上がり、空を舞い、今や宇宙に飛び出している。生命は、時間と共に複雑化して、機能が向上して、時空間的に拡散していくシステムの一部なのだ。拡散して環境が変わる過程で、生命体は、その構造を大きく変えてきた。例えば、海から陸に上がった爬虫類は、魚から見れば驚異のシステムだろう。いま、人間は生命を産んだ地球から飛び出そうとしている。果たして、人間とロボット、どちらが宇宙で暮らすのに適切な形態だろうか。 現状の世界の構造は、原子・分子→《DNA》→細胞→《神経》→脳→《言語》→テクノロジー→《プログラミング》→AI、という多層になっている。基本的には、どんどん繋がって複雑になり階
「おなら」は音が鳴った時に使う言葉 ほほう 元はお鳴らしでお漏らしと対になっていたんだろうか
200億超えにしてはあまりにも周りで誰も見に行ってなさ過ぎる。他の映画の時はそんな事なかった。 もしかしたら凄い大規模な詐欺で、皆盛大に騙されているのではないか?
僕はエッチなことしか書けへん、増田に。 いままでエロかったのは、 17歳の女子とで、おちんちん舐めるときに、 「今朝Yahoo!で調べてきたんですよ(ふぇらの)」から始まって、 僕がいったあと、しばらくして気付いたように「お掃除お掃除!」って されたことも。 想像してない想定外のことしてくる人とは楽しくお互い成長する。 お尻にいれるかな。のときに、ちょっとふにゃってまごまごしたとき、 手で探ってゴム着けてるの確認して、ぱちんっ、て外されたとか。 いつもゴム付けるのお願いされてた女子が、 僕が壁にもたれて、膝を立てて、おちんちんも立ててテレビ見てたら、 ふつーに生で挿れて跨ってきて、 「つけてないですよ」「あらら旦那さん以外の人とこんなことするなんていけない」。 僕はネットでほんのちょっと知れてたりして、 女子とメールのやり取りすると、お茶でもってなるんだけど、 最初から「会うときはせっくる
・1巻の石田のイジメ描写がきつい 物語を進めるためにイジメの強烈な描写が必要なのは分かるが、あれではあまりにも頭悪く描きすぎではなかろうか? 正直あれを読んで、母子家庭のイメージが悪くなった。 姉もビッチという設定で、母子家庭ってこんなにも子どもをしつけられないんだな、ああいう機能不全家庭になる場合があるのだ、母子家庭には注意したほうがいいのかもしれないな、というかなり自分でも嫌な感想を抱いた。 ・他の登場人物たちも育ちが悪すぎる(親子共に) 登場人物たち全員の育ちがよいバージョンの聲の形が読みたい。 彼らが彼らに出会う前に、他者の気持ちを慮る心がそれぞれに育っていれば、物語のほとんどの問題は起こらなかったであろう。 それでは物語にならないので作者は意図的に彼らに問題行動を起こさせているのだが…できればもう少し皆幸せでいてほしかった。
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