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人間失格に関するmshkhのブックマーク (2)

  • 太宰の人間失格は私の愛読書だった - finalventの日記

    ちょっと弁解しておくかな。太宰の人間失格は私の愛読書だった。今でもそうだ。太宰の文学的な才能は圧倒的だと思う。 ただ、俺が歳を取っちまった。そのあたりの人生ひゅ〜っていう感じから考え方がちと変わる。 太宰の人間失格で一番の要所はたぶん、こっそり自分には欲というものがない、と語っているところだ。 私も欲というものがない。まあ、ないわけでもなく、おやつとかってるわけだから、嘘べぇであるが。このあたりはうまくいえない。 他人がもくもくとっているのを、私や太宰のような人は、アライグマのように見ているのだ。この変な感覚というのは、ある一群の人に共通だろう。 もうちょっと言うと、自分がいやになるのだが、自分の味覚が優れているとか言うつもりはないのだが、どうも味を分析的にとらえている。すごく残酷に料理の味を見ている。もちろん、そういう自分がいやで自暴自棄にったりもするのだが。 それでも、ま、こ

    太宰の人間失格は私の愛読書だった - finalventの日記
  • ぶくまより 太宰治とキリスト教 - finalventの日記

    はてなブックマーク - 太宰治とキリスト教 学部の卒論らしいので突っ込みはなし、と。 指導教官が私くらいの年代か、それより上か。 この問題は、別段、太宰に限らず、日浪漫派とかでも見られるし、小林秀雄などにも。それこそ、「西方の人」とかも。 これらはある意味で内村鑑三とか新渡戸稲造とかまあ、そのあたりからの時代風景でもある。というか、マルクス主義とキリスト教というのは、戦前の文学にとって大きな、まあ擬似的な、課題だった。 その突っ込みはしないといいつつ、まあ指導教官の思いを少し察するのだが、卒論とはいえこういう、論立てでよかったのかちと気になる。と考えるに、そのあたりの指摘がふくまれてないのは、私より上の世代の教官かべたな日的なキリスト教徒か、のわりに遠藤と世界化みたいなのもあり。 それはそれとして、人間失格とキリスト教からそれるが。 物語の最後、「あとがき」において全くの第三者である

    ぶくまより 太宰治とキリスト教 - finalventの日記
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