はてなのユーザは年齢層が高めなので、いろいろ悩みが多いのだろう。 そういえば、かく言う私も以前こういう note を書いた: 世の中の悩みや苦しみは、当人にとっては現在進行形なんだけれども、同じようなことは既に多くの先人たちが経験ずみでもある。もちろんだからといって、本人が楽になるわけではないんだけれども。 ちなみに、Wikipedia にはこういうエントリもある:
もう二十代も半ばになってようやく自分の人生に意味や理由が存在しないことを心で理解した。 物心がついてから二十年、どこかで自分の人生には特別な意味があるんじゃないかと思っていた。 そんなものは全能感だか親の願望だか、はたまた本能だかが見せる幻だった。 俺の人生には意味なんてない。 そして人生に意味がないという事は死ななきゃいけないとか、意味を探しに行かなきゃいけないなんて事じゃない。 むしろ生きていいということだ、どこまでも自由に。 もしも子供の頃の自分にそう伝えたら「おっさん何当たり前の事言ってんの?」と言ってくるだろう。 それに対して理屈の上で理解するのと実際に心のなかではっきり納得するのは違うと語ってもきっと何の意味もない。 こればっかりは自分で納得するまで人生を積み重ねることだけでしかしっくりこないだろう。 世の中には俺なんかよりもずっと勘のいい人間がわんさかいて、きっと幼い頃からこ
あ、そうだ。映画『童貞放浪記』はエンドクレジットのあとまで観て下さい。 http://d.hatena.ne.jp/maasha/20090808/p1#c UBCでの博士論文執筆資格審査試験に落ちた時のことは前に書いた。その時鶴田欣也が、私の答案の非論理をいちいちあげつらったことも書いた。 しかしその中に、三島が川端について「文体がない」と書いたことについて、鶴田先生は「これは歴史がないということだ」と言い、私は「ヘーゲル的な」と呟き、鶴田はイエスと言った。 だが、のちのちまで、このやりとりが気になった。三島の「文体がない」という簡単な言を、いかなる学問的手続きによって「歴史」と解釈するのか。また、ヘーゲル的歴史とは何か。論理性を指摘した鶴田のその日の発言の中で、この個所だけが浮いていた。 帰国後、私はヘーゲルを読もうとした。しかし、歯が立たなかった。歯が立たない、ということを、一般的に
先日、ウエイン・W・ダイアーの「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」(参照)をざっと読んだとき、そのなかに「逆説の十戒(The Paradoxical Commandments)」が出てきて、しばらく考えこんだ。 「逆説の十戒」は多少なりとも良心的な教養のある英米人ならそらんじているとまではいえなくても、たいていは知っているものだ。あるいはなんとなく壁に貼ってあったりする有名な教えだ。旧約聖書のモーセ十戒にちなんで十戒になっているが、逆説(パラドキシカル)とあるように合理的ではない不合理な教えだ。有名なので英語版のウィキペディアにも項目がある。日本語の項目はないので試訳を添えておこう。 People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway. (人は論理的でも合理的でもなく自己中心的なものだ。それはそ
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