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googleと国家に関するmshkhのブックマーク (2)

  • 晴れ - finalventの日記

    寝坊した。産経新聞一面の梅田さんのコラムが興味深いものだった。思索を深化させていくと逆に読む人が限定されていく。その限定を緩和させると、単純化・図式化が進む。しかたがないとは言える。ネットに掲載されているかと見るとあった(参照)。この問題視点は難しい。 これからのウェブ世界は、こうした欧米の価値観やイデオロギーに強く牽引(けんいん)された「共有地たるグローバルウェブ」(主に英語圏)と、「政治体制や文化・言語圏に閉ざされたローカルウェブ」がせめぎあい、分断されて林立する時代を迎えるのであろう。グーグル中国問題は、そんな21世紀のウェブ進化のひとつの方向性を示唆するものである。 私の考えでは、Google英語がもたらすインパクトは、文化圏や政治体制のクローズにおけるダイコトミーとは完全に重ならない。私の思索のキーワード「滑らかな浸潤」をふと想起するが、そこまではわからない。ただ、Google

    晴れ - finalventの日記
  • ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ

    この間というかこの数年ハイデガー「技術論」のゲシュテル(Ge-stell)の視点から情報技術や超国家性について折に触れて考えているのだが、うまくまとまらない。そんなことを書くのはつらいし、およそ読みに耐えるものでもなかろうと思っていたのだが、なんとなく年越し前に少し書いておきたくなった。 ハイデガーの「技術論」は一九六三年に発表されたもので、その後七〇年代から八〇年代、九〇年代と、いわゆるテクノロジー来の人間という枠組みで問われてきたように思う。子細に見るなら、七〇年代はサルトル流実存主義の系譜、八〇年代にはニューアカ的な例えばデリダの背景的な後期ハイデガー論とも関係しているだろう。九〇年代には浅薄にジャーナリスティックなハイデガー論も起きたが、今となっては収束したかに見える。現在、ハイデガー「技術論」がどのように問われているのか、もはや時代に問われることはないのか、よくわからない。自

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