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  • 「くさい」と「見ていられない」のか? - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120301 なぜ過剰な演技などを「くさい」というのだろうということを少し考えたが、これはその演技が表面上は間違っていないからなのではないだろうか。表面上は、ということはつまり視覚的には、ということである。 つまり嗅覚は視覚以上に主観的なものであるから、それをくさいと思わない人、または多少わずらわしくおもってもそれを表に出さない人もいる、ということである。 小谷野さんの坪内祐三いじりの場合は、文学ファンだったら知っていてよさそうな人物のことを坪内がとぼけとおしてコラムを書いたことをあてこすっているわけだが、こういうのは「くさい」と呼べるのだろうか。安部ヨリミが誰だか名前だけではわからなかった私は、ごく普通に坪内のコラムの読者対象であることになる。ようするにくさいとは特に思わない。こういう文章にいちいち驚いてみせる読者の

    「くさい」と「見ていられない」のか? - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/03/03
    ふふ
  • わずらわしさから遠ざかった結果 - 柳田威生blog

    週刊朝日の北原みのりの傍聴記を読んだのだが、婚活殺人の容疑者の話ができすぎていて眉唾な気がする。私が読んだ号では、肉体関係なしに金を貢ぐ男というのが容疑者にいて、与えられるがままにその被害者から金を受け取っていたそうなのだが、容疑者は独居老人である被害者の風呂場をのぞいたら、不潔な感じがいやだった、というディティールなどを裁判官や傍聴者に紹介していて、これがあまりにもまことしやかでかえってうそっぽいのである。 この被害者氏が(実際にも)どうも世間と没交渉な人であったらしく、まあ、女に金を貢いでいることなど普通に社会と交流を持っている人であっても話題にするようなことではないが、とにかく容疑者の話とクロスチェックすることができないのがもどかしいよね、という話。 話はとぶが、私は聖書をたまに拾い読みする癖があって、イエスというのは、ほんとうに筋金入りのひねくれものであるなと、軽く尊敬の念を抱くの

    わずらわしさから遠ざかった結果 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/03/01
    "これがあまりにもまことしやかでかえってうそっぽい" 確かに、変に純文学づいているような感じ。
  • 不思議なエッセイ - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120222 「しかし石原は不満たらたらで」がいつの時期なのかよくわからない。高坂との対談記事が出たのが1971年だったら、三島由紀夫は石原を諌め様がないからだ。

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  • 『インフォーマント!』 - 柳田威生blog

    未見だったソダーバーグ監督作をぽちぽちと見ている。 自分の失策から会社の目をそらすために、会社重役である主人公は架空の産業スパイの存在をでっち上げ、まんまと騙された会社はFBIに捜査を依頼する。自分の嘘がばれることを恐れた主人公は、丸である会社ぐるみの犯罪をFBIに通報することで窮地をしのごうと考える。そういう映画である。実話を誇張して映画にしているむねの注意書きが冒頭にある。 こういう、事態がどんどん転がっていく話は、もっとマンガ的なほうが面白くなるのだが、ソダーバーグの演出は自分で断っているほどには誇張されていなくて、この「誇張」というのは全編にわたって挿入されている主人公の「心の声」を表現するモノローグのことを指しているのかもしれない。 たまたま直近に『ブレードランナー・ファイナルカット』を見直して、おまけディスクのメイキング「デンジャラス・デイズ」も見たばかりだから特に強く思うの

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  • 『生きてるものはいないのか』 - 柳田威生blog

    舞台で俳優が「大量死」していくというのは面白い趣向なのかもしれないが、それを映画にすると普通になってしまう。難しいところだ。 パニック状況の中で、倫理観が麻痺した人物が死にたがっている人間を絞殺する。このくだりはちょっと面白いと思ったが、とくに展開されることなく軽いモチーフとして流されてしまう。 たまたまとはいえ、『コンテイジョン』『ハプニング』など、最近の洋画大作に類似する作品がいくつかある。エンディングからは『回路』や『吸血鬼ゴケミドロ』を彷彿とした。 都市伝説という語彙が、わたしもまた好きになれなくて、「うわさ」でいいじゃないかと思う口である。劇中で「都市じゃなくね?」とか「単なる嘘でしょ」とかツッコミが入っていて、なんとも快かった。

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  • 文庫本という言葉 - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120126 文庫も単行であるという表現は、省略がきつい小谷野さんのいつもの癖がまた出たもので、「藝の略字である芸という文字は藝と正反対の意味をもつ字の芸(ウン)と形が同じになってしまっている」ということを、「芸という新字は誤りである」と圧縮する伝と同じく小谷野さんの偏屈からきている。 要するに文庫版とか文庫判とか文庫という言葉が、袖珍の代用語になっているということだ。物を入れておけるほど袖の広い服を着ている人は、もはやまれだろうから、それは普通の人にも了解できる。 文庫も単行である、というのは、普通の人にはなんのことだかよく分らないようだが、つまりはセット販売しないで、一冊、一部から販売しているから、「単行」なのだ、という理屈である。 全集や叢書など、ばら売りしない建前の書物というものがあって、しかし

    文庫本という言葉 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/01/29
    "省略がきつい小谷野さんのいつもの癖がまた出た" ぼんやりと理解したが、そうか、そういうことだったのか。/ 新書が逆に「あの大きさ・装丁を新書という」ってのは、今では特に岩波新書が随筆を入れてるのが例だろう
  • 拡張する世界 - 柳田威生blog

    ムイミさんが円楽(先代)の名を出したので、ふと思い出したのが「わかたけ」である。なぜひらがな表記かというと、子供の頃の私はもっぱら笑点で、大喜利メンバーによって揶揄されつづけるこの「わかたけ」が何のことであるのかまったく理解できなかったからである。 これが円楽が立ち上げて潰した新劇場のことであることを知ったのは後年の話、そのほかにも司会を円楽の前に三波伸介や談志が務めていたことなど、調べなければ知るはずもない。 いまの私は『YOYOCHU』も見ているので、代々木忠がバブル期に東南アジアのどこかの国に文化センターを作ろうとして失敗し、借金をつくった話を知っている。こちらはもうすこし前の話だが筒井康隆や井上ひさし、小林信彦が、自らのキャリアには例外的な大作『虚航船団』や『吉里吉里人』、『ぼくたちの好きな戦争』を著したのも、時代の勢いを感じるのである。 なんで彼らはああも、自分たちの世界を拡張し

    拡張する世界 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2011/12/06
    "なぜひらがな表記かというと、子供の頃の私はもっぱら笑点で、大喜利メンバーによって揶揄されつづけるこの「わかたけ」が何のことであるのかまったく理解できなかったからである"
  • ある種の人間の機械っぽさ - 柳田威生blog

    http://www.amazon.co.jp/review/R1GAMJ5GDRM139/ref=cm_cr_pr_cmt?ie=UTF8&ASIN=4122035945&nodeID=&tag=&linkCode=#wasThisHelpful 小谷野さんのこのやりとりは私にはちょっと面白くて、この「キルステン」さんの「まさ」さんへの応答が、直近に読んだビンスワンガーのの患者の症例を彷彿としたからである。 「まさ」さんの主張は、私なりに言い換えれば、小説作品『言壺』の問題意識が狭すぎて遊戯性が過剰に感じられるために真面目に読み続けることができない、ということになるだろうか。 「キルステン」さんの無意識は、実は「まさ」さんの言いたいことを見抜き、かつ是認しているのであろう。「まさ」さんの主張を、問題意識の狭さにたいする批判としてではなしに、小説作者が問題意識を展開するために虚構を構築設

    ある種の人間の機械っぽさ - 柳田威生blog
  • タイプ分けが躓きのもと? - 柳田威生blog

    抑え込むタイプというのも、私は日人だからそのニュアンスがよくわかってしまうけれど、要するに諍いが表面化することを厭うて安易に忍従してしまう臆病さを、口当たり良く言い換えたにすぎないので、私はそういう表現は好きではない。 私は『小三治』という映画を見た事があるけれど、客よりも頭がよさそうに見えるかどうかはさておき、抑え込むというよりは、騒々しいのが嫌いなのだろうという気はする。 そんなによく聞いたわけではないが、どちらかというと志ん朝のほうが「抑え込」んでいるように見える。 それにしても談志といい小三治といい志ん朝といい、この昭和10年代前半生まれの面々は、高度成長期に放送によって若くしてスターになったという共通点があって、談志などとくにその体験に振り回されていたように見える。戦後昭和のテレビと寄席の関係というのは、昭和の末年に物心ついた身としては、およそ想像がつかないものである。

    タイプ分けが躓きのもと? - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2011/12/05
    なるほど。さらに円楽も加えたあのあたりの売れ方と焦燥とか狂奔とかというものが放送というあたりにあるかも。
  • はしゃぎを自制できない・おちこみを振り払えない - 柳田威生blog

    kokadaさんが春日武彦のを紹介していて、私は吉永嘉明の『自殺されちゃった僕』の文庫版解説で、春日に対しては悪い印象を持っていたので少し気になった。談志の高座が躁なのかどうかといったことはどうでもいいことのように思う。落語は彼の仕事だったのだから。 というよりも、談志は、落語以外の名目でテレビにでることがあまりに多くて、高座は名演だったのかも知れないが、この落語以外のテレビ出演がとてもつまらなくて、それでもしゃしゃりでてきていたのだから、躁の気質はあったのだろう。だからといって、私はそのことをいちいち不気味に感じたりはしないが。 いちおう春日著を見に図書館に行ったが、区内の別の館に所蔵とのことで、そこまで追いかける(予約をして到着を待つこと)気も、ない。 そのかわり、ビンスワンガーの『うつ病と躁病』(みすず書房)を借りてきた。ビ氏の現存在分析についての総論的講釈は、ただただ陶しいの

    はしゃぎを自制できない・おちこみを振り払えない - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2011/12/04
    小谷野さんの「小三治は客より賢く見えるタイプ」という文章を、談志の「落語論」を閉口するほど見たり読んだりすると思い出す。小三治は抑え込むタイプ。
  • 一人称を二人称のように使う - 柳田威生blog

    これはメモ。ついさっき渋谷のユーロスペースで『明日泣く』を見てきて、これは面白かったのだが、それはさておき、劇中で覚せい剤を吸引しようとするヒロインの汐見ゆかりを、主人公の斉藤工が制して「そういうことはてめえの家でやれ」と説くのだが、この、二人称のように一人称を使うのって、なぜなんだろうなと思うのだ。思っただけで、結論とか考証とかはないのである。だからメモ。 むかし、子供の頃は、「てめえ」というのは二人称なのだと思っていて、小説漫画かで、登場人物が自分のことを「てめえ」と呼ぶのを見て驚いたりしていたものである。東京から出たことのない私が、関西弁の「自分」の使い方を知るのは、さらに後の話であった…。

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  • 『母子寮前』を単行本で再読した - 柳田威生blog

    以前読んだのは雑誌に掲載されたときのことで、しかも立ち読みだったのに、文のだいたいが記憶に残っていたことに驚いた。立ち読みで熟読していたなんて、屋には迷惑な私だったと思う。 初読時から印象に残っていた箇所がふたつあって、単行では41ページにあるデジャ・ヴュの講釈と、103ページの「死んだ出版社の社長は…」からはじまって「…あとで調べたら、番なしのソープらしい。」で終わる段落である。 心理学のなどで既視感のことをどう解説しているのか知らないが、これを「誤認識」であるとするのは少数例なのではないかと思うのだ。「気分」と表現したほうが良いような場合に「認識」とか、それに類する語を使うのは、これはもしかしたら小谷野さんに限らず、ある種のインテリの通弊なのかもしれない。小谷野さんはなぜか「気分」という語彙を使用することに抑制的で、いまブログで検索をかけたら、まったく使用しない月があった

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  • 『天皇ごっこ 見沢知廉たった一人の革命』 - 柳田威生blog

    かなりいいと思ったので、御紹介する。いま感想をノートにしたためているのだが、下書きをしてまで論じたいと思った映画は久しぶりである。この日の社会で、自分が不完全燃焼していると感じているような、燻ったやつらは、みんなこの映画を見に行くべきである。 感想をまとめたら、この項目に増補する予定。 http://www.tenno-gokko.com/

    『天皇ごっこ 見沢知廉たった一人の革命』 - 柳田威生blog
  • 自転車 - 柳田威生blog

    きのう友人が、東京は自転車で移動するには諸々具合が悪い、という話をしていて、帰宅してから小谷野さんのブログを覗いたら、やはり似たような話題を書いている。 私は中学高校と東京のはずれのほうに住んでいて、自転車のヘビーユーザーだったが、都心のほうに越してきて、まったく自転車には乗らなくなってしまった。所有もしていない。 田舎の道を自転車で疾走するのは楽しいものであるが、都心は自転車にはなかなか不都合な環境だろうなと思う。住宅地を豆腐屋やら廃品回収の三輪車が通行するのなどは、これは趣のある景色だろうが、もうそういう風習も絶えたろう。 もともと自転車的なものの通行を考えずに、日の街は形成されてきたように思うのだ。それでは自動車はどうかというと、狭い路地にワゴン車が入り込むのなどは、私は、大八車のアナロジーでこれを観察している。視覚的にも障害物が多くて、込み入った東京の街を疾走するには、自転車は難

    自転車 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2011/11/03
    ひとまず田舎では車道を走る自転車は邪魔でしょうがない。テレビ見て律儀に車道を走るチャリンコ少年が轢かれないように祈る。歩道だってろくに人が歩いてないんだから。
  • もしmailinglistの日記の中の人が岩崎夏海の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んだら - 柳田威生blog

    私は岩崎さんという人には、kokadaさんがずいぶん嫌っている人という認識しか持っていなくて、一度もしドラというのを書店で手にとったこともあったが、ずいぶん垢抜けない冒頭に驚いた記憶がある。 で、今日たまたま(http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html?ie=UTF8&docId=3077071286)のページの著者略歴を見つけて驚いたのだが、ああ、だからああいう展開になっていたのか、ということがわかって面白かった。 私は、この程度のことも知りませんでした。

    もしmailinglistの日記の中の人が岩崎夏海の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んだら - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2011/08/16
    <岩崎夏海さんからのスペシャルメッセージ!>というのを読むとずいぶんバタ臭いというか舶来物っぽい。
  • 『A3』 - 柳田威生blog

    私たちオウムの外部の人間は、一般的には、オウム真理教事件を、あの教団が順次凶悪・強大化していくプロセスとして把握しているが、しかし、内部の幹部信者、たとえば中川智正などの見方からすれば、これはまったく正反対で、オウムが宗教の組織として、自らが働きかける組織外の対象を、世界、日(参議院選挙)(シャンバラ化計画というのがあったなあ…)、葛飾区(ボツリヌス菌散布)、松市、地下鉄の車輛、…と、順次せばめていくという、いわば無力化のプロセスでしかなかったというのである。この見方は面白い。 私は、著者が言うように、日がオウム事件によって変質したとはあまり思っていなくて、著者は1970年代後半に成人して、20年ほどを好景気のなかで(人の経済状況はともかく)暮らしていたから、とくに「変質した」と感じられるだけなのではないか、と思っている。 変質したのは、日の豊かさのありようという、わりと狭い領域

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    muimimuimi 2011/08/15
    最終段落。
  • しかし村井秀夫って人はまあ - 柳田威生blog

    大変な、というか、困った人だったんだなあ、ということを思う。私が連想するのはルイセンコのような、イデオロギーに従順な科学者である。ルイセンコは村井と違って、親玉(スターリン)に無理難題をのこして死んだりはしなかったが。 『A3』で、早川紀代秀がやけにサバサバしている様子を読んだ読者は、これを発狂した麻原の様子と対照することで、このからとてつもなく巨大なブラックユーモアを享受することができるだろう。俺は笑った。神って、やっぱり人には答えないものなんだよな、って。答えるつもりがないか(神様?)、答えることができないか(麻原)の区別なんて、どうでもいいんだ、きっと。

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  • 虚構の世界における純粋殺人 - 柳田威生blog

    私などはやはり落語の「死に神」がまっさきに思い浮かぶ。あれは命を蝋燭の炎として描くことで、そのはかなさを表現しているわけだ。当に命がはかないものかどうかはよくわからないのだが。私は生物に興味があっても生命には関心がないというのは、前にも言ったか。 殺人への嗜好を「素質」として具えたキャラクターは、虚構の世界では人気者だ。ジェイソンだのマイケル(『ハロウィン』)だのの類である。荒木飛呂彦が創造した吉良吉影なども私には印象深い。これは現実の人間が、「殺人の素質」を持つことが困難であることの傍証ではなかろうか。

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  • 純粋殺人? - 柳田威生blog

    小谷野さんの「殺人を犯す素質」というものがよくわからない。(たとえばhttp://twitter.com/#!/tonton1965/status/100374297142497280) エド・ゲインにしろジェフリー・ダーマーにしろ、偏った生育環境と、生まれつきの反社会性、嗜虐性、粗暴性が渾然一体となって彼らの犯罪が行われた様子で、生まれつきの殺人者というものは、いないのではないかというのが私の感触だ。なにしろ人間は無力な状態で生まれてくるのだから、他人の人権の完全な抹消という純粋な意味での殺人観念などは、よほどのことがないかぎり浮かばないのではないか。 もちろん、「生まれつきの粗暴性」とか「生まれつきの反社会性」というのは、わりにあるであろう。暴行犯とか窃盗犯とかは、殺人犯よりも歴然と多いのである。しかし、殺人は、被害者が名乗れないし告発もできない点で、暴行や窃盗の犯罪とは違うものになる

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  • 匿名批判と迷惑防止の原則 - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110723 小谷野さんの主張は、要するに、批判という行為には、その対象が迷惑を感じるという副作用がついてくるから、その副作用をできるだけ管理できるようにしよう、というものだ。 深沢明人の文章は、小谷野の感覚に同意できないという主張であって、文章のみてくれとは反対に、自分の内面をつづったエッセイ文にすぎない。深沢にとって、かつてみた「自転車をこぎながらどなる男」の印象が強くて、これを小谷野さんに関連させてみたかったのだろう。大衆は自分の理解したいように現象を理解する、というのは私がオルテガのから教わったことである。 もちろん、ブログやツイッターを介さずに、小谷野さんにメールなり葉書や封書で意見や批判を送る「まともな人」はたくさん(?)いるのである。深沢がまともな人であったなら、ブログで「わからないこと」を表明するまえ

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