昨3月28日、東京大学駒場キャンパスにて『帝国の慰安婦』の評価をめぐる討論会が開かれ、私も報告者として登壇した(追記参照)。討論会では色々な意味で興味深い発言に接したが、それについては日を改めて記すことにする。
この一年半にわたりブログや論文で書いてきた『帝国の慰安婦』批判の論考を大幅に加筆・修正したものですが、半分以上は新たに書き下ろしました。 この本では、『帝国の慰安婦』と礼賛論の主張をそれぞれ検証し、本書には日本軍「慰安婦」制度についての日本軍の責任の矮小化、被害者たちの「声」の恣意的な利用、日本の「戦後補償」への誤った根拠に基づく高い評価などの致命的な問題があることを指摘しました(詳しくは末尾に目次を添付しますので参照してください)。著者の朴裕河氏や擁護者たちは『帝国の慰安婦』への批判はいずれも誤読によるものであると反論していますが、こうした主張こそが本書を「誤読」しており、被害者たちの怒りには相応の根拠があるというのが私の結論です。 むしろ問われねばならないのは、これほどまでに問題の多い本書を「良心的」な本としてもてはやした、日本の言論界の知的頽廃です。なぜほとんどの日本のメディアは、日
「国際政治学者や歴史学者ら74人」(代表・大沼保昭、三谷太一郎)が7月17日、声明「戦後70年総理談話について」を発表した(『朝日新聞』2015年7月17日付web版)。8月に出されるであろう安倍首相の「戦後70年談話」について、「学者」らが所見を明らかにしたものであるが、率直にいって私としては、この線で安倍談話が出されることに断固として反対しなければならないと考える。その理由を以下に記しておきたい。 いま巷間には「戦後日本=平和国家」という像を立脚点に、そこからの逸脱として安倍政権=安保法案を捉え、これに対抗しようとする言説があふれている。だがこれは言うまでもなく虚像であり、歴史認識として誤っている。日本は憲法九条を遵守してこず、むしろ「戦後史」は解釈改憲史にほかならなかった。日米安保条約及び国連軍地位協定体制のもと自衛隊と米軍は一貫して日本・沖縄に駐留しており、常にこれらの軍隊と基地は
今年の4月は例年ならば行われる朝鮮民主主義人民共和国に対する経済制裁延長の閣議決定がなされない。もちろん、安倍政権が制裁を止めるからではなく、昨年4月に制裁の期間が1年から2年に延長されたからだ。日本社会でこのことに気付く人はほとんどいないのではないか。そのくらい制裁は自然なものになってしまっている。 後述するように、いま発動されている制裁は事実上の有事立法にもとづくものだ。それが8年にわたって継続している。しかしこの状況をほとんどの人びとは有事法が発動した状態であるとは認識していない。朝鮮学校の無償化排除や補助金停止などの教育に関する弾圧も、これらの有事法の発動によって形づくられた大状況に規定されていることが明らかにもかかわらず、である。これは朝鮮やそれに関わる在日朝鮮人の立場からすれば、極めて非対称的で異様な「戦時」が続いていることを意味する。 2002年以降の「狂乱」 のなかで、「護
排外主義運動を生み出さないためにも、マイノリティに過度な権利を与えるべきではない――こう主張をする者を、私たちは何と呼ぶべきだろうか。 排外主義者とは異なる何らかのまっとうな名前(中道派?保守主義者?リベラル?)を与えるべきだろうか。確かに一見排外主義を憂慮し「客観的」な立場から議論するふうを装っている。だが少し考えてみればわかるように、この者の主張は実際には排外主義者と変わるところがない。自ら「私は排外主義者ではない」と表明しながら、同様の主張をしているだけだ。そのような自認を汲み取って別の名を与えるくらいならば、正しく「排外主義者」と名指すほうがよほど正確だろう。 しかしながら、「排外主義者」よりも(あるいはそれとは異なる)悪質な何かである可能性はある。排外主義者たちが「私達のような者を生み出さないためにもマイノリティを優遇するな!」と自ら叫ぶとは考えにくい。むしろ自らが排外主義者では
中野重治の「ある側面」という文章に、魯迅の文学についての次のような一節がある。 「政治的発言をした文学者はたくさんいた。正しく政治的発言をした文学者もたくさんいた。しかし魯迅は、彼の人間的発言、彼の文学的発言が、多くの場合ただちに、政治的な言葉を伴わない、しかしもっとも痛烈な政治的発言であった。ここに子供がいる。その子を目がけて狂犬が飛びかかってくる。それを見たある人々が、いかにも政治的であるかのように自分で思い込みながら、小児と狂犬との距離は急速に縮小しつつある、という風にいってつっ立っている。飛び出してきて魯迅が叫ぶ。その犬をうち殺せ、子供をさらいこめ。人が思わず犬にとびかかろうとする。子供の帯をつかまえようとして、思わず手を出す。そこに魯迅の文学の特殊の感銘があった。」(『魯迅案内』岩波書店、1956年、36-37頁) 『毎日新聞』(2013.3.6付、大阪朝刊)「論ステーション:
“SYNODOS JOURNAL”に金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」が掲載された。 http://webronza.asahi.com/synodos/2012051100001.html このQ&Aは、このブログで幾度か批判した、金のいうところの「リスク社会」における「新たな運動戦略」の実践篇とでもいうべき内容となっている。すでに朝鮮学校が再三述べてきた主張を取り入れている部分を除けば、金のオリジナルの部分の論理は前にも指摘したように『朝日新聞』のラインの無償化適用論であるといえる。さまざまな問題点があるが、ここではさしあたり重要な問題点に絞って指摘したい。 *参考 朝鮮学校「無償化」排除問題 http://kscykscy.exblog.jp/i6 抗議 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/ 第一に、このQ&Aは朝鮮学校の教育「内容」に踏み込
前回と同様発表から若干時間が経っているが、社会学者の金明秀氏が昨年書いた「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」という文章がある。はじめ在日本朝鮮人人権協会発行の『人権と生活』に掲載され、現在は加筆・修正の上、金明秀氏自らが管理するサイトにアップされている。これは在日朝鮮人の「民族運動」に対する一種の「提言」であるが、その内容は大変危うい。少し日が経ってしまったが、まかり間違えてこの提言が受け入れられることのないよう、ここに批判を記す次第である。 金明秀氏の主張は次のように要約できる。現代日本は「リスク社会」になったのだから、在日朝鮮人も「人権」「平等」などの「近代の市民的規範」を訴えるばかりではだめだ、リスク・コミュニケーションが必要だ。そして、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本
すでに何度か書いたとおり、「無償化」排除問題は朝鮮高校生の就学支援金支給からの排除から一歩進み、補助金を口実とした都道府県知事による教育内容への干渉という事態に至った。こうした大阪、神奈川、東京の各知事らのデマも交えた攻撃的な教育干渉に対し、朝鮮学校側はデマへの不毛な反論という消耗戦に追い込まれている。 朝鮮学校側は石原に学校を見に来るよう訴えているようが、私はむしろ、石原慎太郎に授業を監視されるという体験が東京朝鮮高校の学生らの人格の健やかな形成を阻害し取り返しのつかない精神的な外傷を生むことを恐れる。 それは措くとしても、現在の知事らの朝鮮学校攻撃は、個々の知事による教育干渉に留まらず、朝鮮学校への更なる弾圧強化のための中央政府も巻き込んだ連係プレーへと発展する可能性がある。その推測の根拠について以下に記しておきたい。 現在の右派政治家らの朝鮮学校攻撃言説の核心は、朝鮮総連と朝鮮学校の
2011年11月18日創立の「独島を守り六大未清算課題を解決しようとする韓日協定再協商国民行動」が先月末の韓日議員連盟合同総会に宛てた公開質疑書を翻訳・掲載する。 http://blog.daum.net/schumam 日本のメディアは完全に黙殺したようであり、また「国民行動」のサイトをみても日本語版が掲載されていないようなので、ここに勝手に日本語訳をする次第である。日韓諸協定の再交渉の問題は、当然ながら韓国政府・韓国国民のみの問題ではない。直接問われているのは、日韓諸協定により植民地支配責任をみごと回避した日本政府・日本国民である。 特に、質疑書の「今日の日本が民主主義と平和主義を志向する国なのであれば、自らの政府が犯した1910年併呑条約の強制性と不法性を認定し、宣言しなければならない」という問いを日本人は重く受け止めるべきである。専制と侵略主義の大日本帝国を愛でながら、他方で「民主
衛藤征士郎の訪朝延期をめぐるインタビューを『産経』が報じた。衛藤は「日朝平壌宣言に基づき、拉致、ミサイル、核の諸問題を包括的に解決するということ。もう一点は、会長の私は永住外国人への参政権付与に反対だということ」に言及するのみで、日本の植民地支配責任については、平壌宣言の該当文言にすら言及していない。もはや日本の言論空間から植民地支配責任をめぐる論点そのものが消滅してしまった感がある。 ただ、、『The Voice of Russia(ロシアの声)』が若干気になる記事を掲載した。11月25日付の同紙は、「北朝鮮 植民地支配の賠償 日本に求める」と題し、「労働新聞のなかでは、北朝鮮が繰り返し日本に対して謝罪と賠償を求めているものの、日本政府は過去の日本帝国主義の犯罪を認めることを拒否している、とされている」と報じている。 平壌宣言後の朝鮮政府の日本に対する植民地支配責任追及の方針は、正直なと
予告通り9月14日に「公職選挙法一部改正法律案」(以下、法律案)が国会に提出された。提案者はユン・サンヒョン議員以下12名で、いずれもハンナラ党所属である(公職選挙法一部改正法律案)。 法律案の提案理由は以下の通り。 これらの者〔引用者注:在外選挙権者〕のうち、朝鮮籍で日本に居住する在日同胞が国籍変更申請をして韓国国籍を取得し、投票に参与する場合、親北性向を持つ者が投票に参与することもできるようになるため、これに対する防止策が求められる。 よって中央選挙管理委員会と区・市・郡の長が在外選挙人名簿及び国外不在者選挙人名簿作成時、大韓民国の利益と安全を害するためにこの法において規定された選挙に参与する虞があると認定しうる相当の理由がある者については、名簿に掲載しないようにするものである。 ここで明確に述べられている通り、法律案は在外有権者のうち在日朝鮮人の投票権制限を狙いにしている。また、ここ
朝鮮人の立場から植民地支配責任の問題について論じるブログ。8月14日早朝にNHKで放映された「フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての"3.11"」を観た。90年代以来の徐京植の批判的言論から多くを学んできたつもりの者として、とても正視に堪えなかった。以下に思いついたものを摘記しておきたい。 第一にプリーモ・レーヴィの誤用について。徐はなぜ震災発生後に韓国に避難しなかったのかについて、次のように語る。 「私自身も韓国にいる友人から、大丈夫か、とか、あるいは一刻も早く韓国に逃げて来いというような連絡を受けました。だけどそうしなかった。そのことを私は、自分はなぜここを動かないんだろうということを考えたときに、繰り返し思い出したのはヨーロッパのユダヤ人、ナチスによるユダヤ人絶滅政策がひたひたと迫っているにもかかわらず〔中略〕なぜ動かなかったんだということを、わかるようでわからない問題だったんだけ
8月25日付『民団新聞』に掲載された「団体役員」李敬成の「民論団論 朝鮮高校無償化問題」という論説が凄まじい。まずは以下の文章を読んでいただきたい。「朝鮮高校に対する無償化適用問題は、自国民の命を犠牲にして核を含む大量殺戮兵器を開発し、豪勢な生活をほしいままにしてきた世襲独裁政権に盲従を強いる同校の教育内容に、改めてメスを入れた。同時に、韓国籍を取得した後も朝総連組織に属して何らかの活動をする、いわゆる《偽装韓国籍者》が多数存在する事実をあぶり出した。 韓国籍を取得した後にも反国家団体である朝総連と連携する者や、韓国籍でありながら北韓及び朝総連の指示を受けて運営される学校に子どもを通わせる父母たちは、韓国の実定法に違反していることになる。これに応分の対処をすべきであったにもかかわらず、韓国政府はこの間、何らの法的処置をとることもなかった。 これを放置していいわけがない。関係当局は最近になっ
ちょうど二年前の2008年8月30日、イタリアとリビアの間である条約が締結された。日本語での定訳が無いようなので、さしあたり「イタリア-リビアの友好・協力・提携に関する条約(Treaty on Friendship, Partnership and Cooperation between Italy and Libya)」としておくが、締結された都市の名前から、以下「ベンガジ条約」で統一する。翌年の2009年3月2日に発効した。 ベンガジ条約はイタリアによるリビア植民地支配に対する「謝罪」と経済支援、安全保障、そして北アフリカからイタリアに向けた移民の規制など、いくつかの極めて重要な問題を取扱っている。私はベンガジ条約は今後の日朝国交「正常化」交渉を考える上でも非常に重要な意味を持つのではないかと考えているが、日本では条約締結の事実を伝えるもの以外、論評などは皆無に等しい。韓国併合百年云々
「超左翼おじさん」こと松竹伸幸氏(以下敬称略)が、「韓国植民地支配での菅総理談話」と題して連載している。「韓国植民地支配」という表現にすでに違和感をおぼえるが、そもそも松竹は植民地化をめぐる基本的な事実を誤って理解している。以下の引用を見よう。 「例外もあるかもしれないが、欧米の場合、そもそも条約によって植民地にするという事例が、あまりないと思う。だって、植民地支配というのは、もともとそういうものではないからだ。 列強がつくった国際法では、条約を結ぶ相手というのは、対等平等な主権国家であった。そういう国家は、植民地支配の対象にならない。 「国際法」上、植民地にしていいのは、いわゆる「無主」の地だけ。人びとは住んでいるけれども、西欧的な意味での国家はなく、「主」はいない。 法律では、「先占」という考え方がある。誰のものでもないものを見つけた場合、一番先に見つけた人のものになるということだ。そ
8月10日に発表された韓国併合100年に関する首相談話(以下、菅談話)に際し、日本の主要紙は揃ってうんざりな社説を掲載した。以下にタイトルを列挙しておこう。 朝日「併合100年談話―新しい日韓協働の礎に」 毎日「併合100年談話 未来へ向け日韓の礎に」 読売「日韓併合談話 未来志向の両国関係に弾みを」 日経「未来志向の日韓関係へ行動を」 東京「日韓併合談話 歴史を胸に刻み未来へ」 五紙の社説の関心はほぼ一点、菅談話と日韓条約の関係に絞られている。とりわけ個人請求権・文化財問題は解決済みという日本政府の公式見解から菅談話は逸脱するものではない、ということをいずれの社説も強調している。該当部分を抜け出せば以下のようになる。 「談話は補償問題につながるような記述は避けた。現実的な対応として理解できる」(『毎日』) 「今回の首相談話により、韓国国内で元「従軍慰安婦」などに対する補償を要求する声が再
前回の記事で、和田春樹が2010年を期に「鳩山談話」で韓国併合の「無効宣言」を出せと提案していることに触れた。併合無効については前回記さなかったので、私の立場を書いておこうと思う。 私は併合条約の前提となる1905年条約は君主に対する脅迫があったため成立していない、という説は説得的なものであると考えるので、日本政府は併合無効を承認するべきだと思う。ただ、和田のいう「鳩山談話」は、無効宣言とバーターで日韓間の「歴史問題の完全解決」を図る、つまり一種の「終結」のセレモニーとなる可能性が非常に高い。私は、無効宣言は一つの「始まり」であると考えており、そうした観点から和田の提言に危惧しているのである。「併合無効」なんか宣言したら次は何を要求されるかわからないという右翼の危惧に、「いやいやそんなことありませんよ」と宥めるのが、和田流である。だが私は右翼が恐れるとおりにしなければいけないと思う。あんな
朝鮮民主主義人民共和国への送金規制強化を骨子とする「日本独自の追加制裁措置」が5月28日午前の閣議で決定された。福島瑞穂が罷免されたのは28日夜の閣議なので、社民党もこの「制裁」延長・追加に賛成したわけだ。 さて、この「制裁」延長・追加をめぐっては閣議決定数日前より、朝鮮民主主義人民共和国を渡航先とする在日朝鮮人の再入国禁止が検討されていると報道された。報道は再入国「制限」としているが(『朝日』2010年5月28日7時38分)、在日朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国を渡航先とした場合は再入国許可を発給しないということなのだから、「制限」ではなく禁止が正確である。具体的に政府は、現行の日本居住の最高人民会議代議員6名への再入国禁止を、朝鮮総連中央常任委員会の構成員20名に拡大する方向で検討していたようだ(『47news』2010年5月25日18時15分)。 『朝日』によれば、この案は「人道上問題
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