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ブックマーク / amanoudume.s41.xrea.com (9)

  • 発熱地帯

  • 発熱地帯: ゲームデザインの構造的変換を示す「遠心力」というキーワード(後編)

    ファミコン世代の方々は、おそらくゲームで徹夜したことのある人も多くいらっしゃると思います。ゲームにはそういう「ハマる」魅力がありますし、実際ゲームの作り手はハマるゲームを作るように努力してきました。プレイヤーを熱中させ、テレビ画面の向こう側に吸い込んでいくようなゲームが名作と賞賛され、歴史に残ってきました。そうやってハマった経験をもつユーザーは、ヘビーユーザーになる人も多く、ファミコンブームが去った後もゲームを熱狂的に支持してくれました。その中から、ゲーム開発者になった人もいると思います。いや、まー、ボクもその1人だったりしますが(笑 それは決して間違いではありません。ただ、ある時点から、ゲームはその求心力があまりに強くなり過ぎたのではないか、と思うのです。求心力はいつしか拘束力になりました。強制される長いデモムービー、ムービーとムービーの間をつなぐ作業にも似た長時間プレイ、長ったらしいロ

  • 発熱地帯: 瞬発力と持続力(1) ゲームの「瞬発力」

    「瞬発力」というのは、パッと見て読んで触って、すぐに夢中になる、興奮する、価値がわかる、魅力的と感じる要素のことです。ゲームにおいて、一番わかりやすい「瞬発力」の例は、グラフィックでしょう。凄い映像というのは、誰が見てもパッと魅力がわかります。3DCGムービー全盛期はこの「瞬発力」が非常に持てはやされましたし、2Dの頃でさえ、巨大なスプライトのボスが派手に登場したり、無数の弾が飛んできたり、スクウェアのドット絵世界に多くのゲーマーが夢中になったものです。また、美少女ゲームの場合は、キャラクターデザインです。 グラフィックの強みは、写真やビデオでも魅力が伝えられることです。ゲームは実際に触らないと面白さがわかりにくい性質があります。しかしそれでは宣伝しにくいし、売りにくいので、ゲーム業界が伝統的にグラフィックの力に頼ってきました。 とはいえ、3DCGが高度になってきて、一般の人には違いがわか

  • 発熱地帯: ゲームデザインの構造的変換を示す「遠心力」というキーワード(前編)

    発熱地帯:ゲーム業界の構造的変換を示す「遠心力」というキーワード ↑の記事は3年前に書いたもので、実はこのブログを始める前、BBSをやっていた頃に書いた文書です(BBSに投稿したのはたしか2003年の10月頃だったと記憶しています)。それから時間が経ち、ゲーム業界は大きな変化を迎えました。「据置→携帯シフト」や「プロセッサ性能市場主義の崩壊」など、ゲームの受容のされ方、ゲームデザインにまで変化は及んでいます。それをどういう風にとらえるのか、頭を抱えている人も結構いらっしゃるのではないでしょうか。今回の記事は、そういう人たちの頭の整理のために書きました。 大雑把には「求心力」の時代から、「遠心力」の時代に変わってきたのだと思います。 「求心力」というのは、画面のあちら側、ゲームの内部の表現世界を高めていくことで、ゲームの価値が高まるという考え方です。小さなスプライトから大きなスプライトへ、1

  • 発熱地帯: 瞬発力と持続力(2) ゲームの「持続力」

    ゲームウォッチ〜ファミコンの頃、ゲームを続けさせる仕組みは「スコア」と「難易度」でした。容量が無かったため、多くのゲームは内容が短く、同じこと(ステージ)をくり返していました。そこで敵のスピードや出現頻度を徐々に上げていくことで、変化を作りました。難易度変化は単調上昇ではなく、ある周期で上昇しては一度低下し、しかし長期的には上昇している、という緩急がついていました。グラフィックを増やさないで変化をつけることに工夫があったわけです。 ABAの日誌 「単調シューティングをランクで味付け」 1つ参考になるのは、やはりゲーム&ウォッチかなあ。ゲームウォッチはだいたい100点単位でランクが上昇し、100点を越えるとがくっとランクが落ちるという作りになっている。ただし100点ごとの上昇量は得点が増えるほど増す。こうすることでゲームに絶妙な緩急がつき、あの単純なゲームでも楽しく遊ぶことができたわけだ。

  • 「ライトユーザーには強いが、ゲーマーには弱いDS」という神話

    また君か。「ゲーム系オタオタジャーゴン」 日国内のゲーオタ系ブログの分類をしておられますが、納得できる部分が多いです。しかしこの分類を見ると、携帯ゲーム機のゲームを純粋に面白いと思っているゲーオタがどこにもいませんね。いや、当にいないのかもしれませんが。ゲーオタという生き物は質的には、ゲームの内部世界に埋没していく願望を持っているので、最近のライトゲーム路線にイマイチ乗れないのは自然な反応です。 (もちろんDS支持派というのはしっかりかっちり存在しますが、彼らの多くは任天堂ファンとして分類した方が良いでしょうね。ゲーオタといっても、重いゲームに付いていくのに疲れた人も増えてきているので、そういう人々をゲーオタと呼ぶべきかどうかはさておき、どこかに分類した方がいいかもしれませんが) まぁDSが大人気といっても、ネット上のゲームマニアは自分たちの遊べるゲームが無いという不満をたびたび表明

  • 発熱地帯: 10年前の状況と似てきましたね

    振り返ってみると、去年末あたりから『脳トレ』のゲームデザインについての言及が増えています。 ネット上でゲームデザインがきちんと評価されてないなあ・・・と嘆いたり、ポップ・コラムでついに『脳トレ』が紹介されたのを喜んだり、『えいご漬け』と『脳トレ』の違いの議論がコメント欄で盛り上がったり、欧米のゲーム業界で注目を集めていることに触れたり。 どうしてかというと、漠然とした危機感のようなものを感じていたからです。 それは何かというと・・・・、『脳トレ』が大ヒットして、みんなそれにならって、脳を鍛えるゲームや学習ゲーム、実用性の高いゲームを作り始めているけど、ちゃんとゲームデザインを分析できてるのかなあ、意外とできてないんじゃないか?ということ。世の中に出てきつつある、色々な会社の後追い商品を見て、そう感じたんです。ネット上で言及されていたのが、価格/ネーミング/宣伝手法といったマーケティング要素

  • 発熱地帯: 日本のゲーム界は「映画→テレビ」に匹敵する歴史的分岐点を迎えている

    ゲームは過去数十年にわたって、技術の進化と共にゲームデザインを変化させてきたメディアです。実際、次世代ゲーム機が出れば、その性能を活かした次世代ゲームが生まれることが期待されてきました。性能向上がゲームを面白くし、ゲームユーザーに支持され、売上も市場も業界も成長するという、素朴な楽観主義が信仰されていたのです。 しかしこの特性は、これから変化していく可能性が高いです。というのは、今やプロセッサ性能至上主義の崩壊が誰の目にも明らかになったからです。それはDSが証明しましたし、今年のE3で多くの業界人が認識したことでしょう。今週のファミ通(P.21)ではなんと、あの鈴木裕氏がプロセッサ性能至上主義が終わったと語っています。 技術が上がれば上がるほど、ゲームおもしろくなって伸びていった時代。でも、いまはそうじゃない。技術はユーザーにとってもう十分満足する状態にあって、成熟期ですよね。DSを成功

  • 発熱地帯: ゲーム業界は10年のループを抜け出せるのか?

    去年の11月に「2005年は第2次ライトユーザーブーム元年だった」と指摘し、今年の2月には10年前の状況との類似性を多少の危機感をもって語りました。そして、ますます10年前と似てきたなあ、と思う現象が起きています。 ・GAME NEVER SLEEPS 「開発者は岩田発言に釣られるな」 俺が絵画を鑑賞できないように、ハリウッド映画しか観ない人がいるように、ゲームを楽しめない人は、どこまでいってもゲームを楽しめないと思う。ゲーム人口拡大も結構だが、軽薄なブームで拡大するのは、流行と広告に左右される、はなはだ不安定なゲームファンだということを忘れてはいけない。 (略) たとえ、その結果できたものが「大作主義」と揶揄されるものであろうとも、ゲームを支えて来た、そしてこれからゲームを支えるであろう、「ゲームを楽しめる人たち」は、きっと、認めてくれる、答えてくれると信じてゲームを開発していこうと思う

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