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ブックマーク / qaze00.hatenadiary.org (12)

  • 娯楽を消費して元気をもらう - インターネットの真の姿とは

    最近、コンテンツをなんとなく消費していたが、そのコンテンツがどれほどの作品であるか、評価ばかりしていたように思う。これはいい作品だ、と思えるからなんだというのだとふと思った。 ゲームや動画や音楽も、それを使って来の進むべき道にやる気を与えるという性質に使うのが望ましい姿であると思う。だから、途中でやめてしまってもいいのである。そこから何か元気を得られるような作品であって、新たな行動に結びついてこそ、自分にとっての良作であると思って間違いない。 というのも、自分はゲームなどにはまりやすいタチで、過去にも覚えがあるため、ゲームやその他にはまっていくことを忌避していた部分がある。でも、結局満たされなさが残る。刺激がないというか、前に進んでいかない気分になるのだ。元気をもらえる作品が名作なのであって、美麗で秀逸なストーリーだから名作、というわけではないのだ。 生産を、したいね。それは何でもいいの

    娯楽を消費して元気をもらう - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2009/02/05
    "ゲームや動画や音楽も、それを使って本来の進むべき道にやる気を与えるという性質に使うのが望ましい姿"
  • インターネットという複雑系におけるルール作り - インターネットの真の姿とは

    あらゆる人間は、時間的な限定と次世代への情報の非継承といった存在であるが故に、世界の全てを把握してはいない。部分的な情報のみを全てとして日々を生きている。 われわれは世界の全てを知らない。だが、世界の部分としてのわれわれが、まるで世界の全てを知っているかのように統制がとれたふるまいを示している。現代の世相を表出しているのは、全てが、「ルール」の存在を根源とする。 ルールとは、一つには、憲法だ。一つには、教育だ。人間の考え方をどう育てていくかによって、人間は相互に複雑に作用し、初期状態とはまったく予測できなかったような結果を生み出すこともある。初期状態のルールがわずかに違うだけで、その違いが世界に大きな影響を及ぼし得る。ルールは、あらゆるものの基となる、大切な部分だ。たかがルール、されどルールということだ。 インターネットの世界は、また一つの複雑系である。世界の人々を巻き込み得るといった意

    インターネットという複雑系におけるルール作り - インターネットの真の姿とは
  • 心にヨユウを持って世界を楽しむ - インターネットの真の姿とは

    いつの間にか。自分を振り返ると、昔に比べ様々なものが楽しめなくなっていた。 なぜだろうと考えていくと、やるべきことが多くなったせいで、時間の余裕が持てなくなっていたからだな、とわかる。楽しめないってのはつらいことだ。常にイライラしていなければならない。ストレスもたまり、健康にもよくない。 今日も遅くなったなーと、自転車に乗って急いで家に帰りながら、ふと気づいた。〇分後、〇時間後の目的がはっきりしていると、”今”の濃度が薄くなってしまっていることに。生きているのはまぎれもなく今、この時なのに、自分はその世界を薄目を通してしか認識していない。 気がつけば、先の目的や目標は山のようにある。計画的に行動し、自制する。数ヶ月後のために、今我慢する。日ごろよく行っている行動だ。そういった自制のきく人間が、人生を線のようなものとしてみたとき、まさに合理的な行動なのだろう。だが、未来からでてきた、計画とい

    心にヨユウを持って世界を楽しむ - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/09/12
  • 一日が加速してゆく - インターネットの真の姿とは

    日々の中に自分を取り戻す瞬間がないと、一日はどんどん加速していき、自分という意識を失っていくように思える。生きているのが自分自身なのか、世界の傍観者であるか、その区別が少しあいまいになる。 一度加速しだすと、一時間でも、一日も、一カ月もあっという間に過ぎる。自分はその間時を過ごしたのか、記憶があいまいななかで時間がすぎていく。その中の自分という存在は、とても機械的で、無機質だ。自分が日々の成果を挙げたという数字だけに注目がいき、その中で自分が何を感じたのか、何を思ったのか、どう考えているのかなどといった「余分な」情報はそぎ落とされていく。 ただひたすらに生産と活動にいそしむ毎日は、すばらしい理想的な人間でもあり、よくみられる日常の風景でもある。それはとても自分が充実しているときなのかもしれないし、加速が別に、悪いとは思わない。 ただ、加速しすぎた末に、自分が何をしたかったのか。その目的をど

    一日が加速してゆく - インターネットの真の姿とは
  • 文章をうまくまとめることの難しさ - インターネットの真の姿とは

    現代は、誰にでもすぐ内容がわかるような要約が求められている。ニュースの見出しやブログのタイトルをみても、その重要性は大きい。独特な表現はわかりにくく、嫌われる傾向にある。短く、まとめて、誰にでもわかるような言葉、文章、プレゼンテーションが求められている。 実際の所、よく使われる単語をつなぎ合わせているため、面白みはそんなにない。でも、普通の人が文章を書くとき、伝えたいことは内容であって、文章表現のレトリックではない。このほう自分のニュアンスが伝わる、という言葉でも、相手が共感していなければ、残念ながら相手には伝わらない。 私は当面、パワポのプレゼンテーションを鍛える必要がある。どうやらいつも作っているのは文章が多すぎて、見ているほうからしたらよくわからんらしい。もうちょっと資料の言葉は要約して、トークで伝えろというわけである。それがソツなくできたら苦労しないよと毒を吐きつつ、言っていても仕

    文章をうまくまとめることの難しさ - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/06/22
    要約ばかりを求め、また求められる時代。 つまり言いたいことは何なの、と。 それによってどうなるかはまた別として、そういう傾向があるのは確かかも
  • ブログは真実を語れるか - インターネットの真の姿とは

    ブログという「場」は、真実を語れるような場所か、ということについて。真実とは、真実だと自分が当に思っていることをそのまま書けるか、ということにします。 現状、いくつか問題があります。 自分にとってコアな、真実だと思うエントリほど独りよがりに陥る →まず読んでもらえない 周りの目を気にする。リアルでつながっている人がブログを知っているならその目を、リアルでなくても常連として読んでくれる人の目を気にすることも。「そのブログのスタイル」を外れた何かを書くことを恐れるといいますか。要は、失望させたくないということですね。 芸能人や有名人なんかは好きなことかけないだろうなあ。好きなことかけないブログってどういう意味があるんだろう。広告塔、近況お知らせ、ファンつなぎとめ・・・などなど。変なこと、自分にとってコアな部分を書いてしまうことはリスクにつながったりする。Webの「誰か」は常に、有名人のどこか

    ブログは真実を語れるか - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/05/29
    書いて恥ずかしくなって消す
  • ブログは定期預金のイメージ - インターネットの真の姿とは

    結局blogなんて、クソの役にも立たなかったわけだ。 増田より この記事を見て思ったが、比較すると俺の前日エントリは相当遠慮しているなあ。書くきっかけは同じなのだけれど。 言いたいことはわかる。こねくり回して書く俺よりかはよっぽど主張がわかりやすい。わかりやすいと感じること自体、一理あるんだろう。思ったこともそのまま書けなければ、読者もそれを、書き手が期待したようには読んでいない。互いにむなしい期待とエゴだけがある。 ・・・前に似たようなこと書いたことあるな。過去ログ過去ログ・・・あ、あった。 3/29 ブログを否定的に見る ブログって役に立つかといわれると、速攻自分にとって何かの役に立つことは少ないと思う。使い方やテーマにもよるが。基、多くの読者が求めているのはyahooニュースでもGIGAZINEでもブログという形態をとっていても一緒で、役に立つ新情報(ネタ)だ。それは変わらない。

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  • 大切な一日 - インターネットの真の姿とは

    日常の忙しさに身を任せてしまうと、 一日が、 かけがえのない大切な一日であることを、 つい忘れてしまう。 一日は、有限なものである。 人生の時間が自分の財産だとするならば、 財産を、日々徐々に使っているわけだ。 真摯な気持ちで、一日、一日を大切に生きたい。 財布の中にはいっているかもしれない一万円札より、 ずっとずっと大切なかけがえないのないものだと、 気づいたときはおそらく遅い。 (注)ニコニコ動画は時間のムダじゃないんだからねっ

    大切な一日 - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/05/29
  • Webを全貌できる地図が欲しい - インターネットの真の姿とは

    Webはとても広大で、一ユーザの立場ではその地平線すら見えない。どこかで楽しいことが行われていたとしても、それを知る術は、偶然、ニュースとしてとりあげた人経由でしかわからない。多くの人があるサイトに殺到していたとしても、私から見える世界からはその様子が見えない。Webのブラウザは非常に局所的かつ限定的な場所しかうつさない。たとえるならば、障子にポツポツと穴を開けて、その向こう側を見ているようなものだ。全貌は見えず、まどろっこしい。Webの全てが概観できるサービスがあったなら、どれほどいいだろうか。 ・・・・・と、私は思うのだが、他の方はどうでしょうか。今まで色々な方にこの持論を展開してきたのだが、ほとんど賛同を得られたためしがないので。 ただし、このサービスを実現するにはいくつもの障害がある。 ユーザ側がそのような情報を提供するインセンティブがない Web可視化は、Web全体がセキュリティ

    Webを全貌できる地図が欲しい - インターネットの真の姿とは
  • Webとリアルのバランス - インターネットの真の姿とは

    Webは当に楽しく、おそらく一生Webにいても退屈することは無いと思います。毎日ニュースを読み、ブログを書き、ついったーで新たな発見をし、動画やゲームで楽しみ、2chで笑う。そんな生活がずっと続いていけばいいなあと思う。でも、人生は時間軸のもと、選択を続けていく存在である以上、何かを得るとともに失い続けていく毎日であるわけです。 最近ふと、自分が滑舌がやばくなっていることに気づきました。東京特許許可局が何回繰り返してもちゃんと言えない。以前はもう少しちゃんと言えたはず。なんでだ?と考えたときに、単純にWeb世界が自分の日常となってから、しゃべる機会が減っているな、ということに気づいた。 じゃあスカイプ使えばおk、ってそういうことを言いたいのではない。Webにも大切なものがあるが、リアルも大切なことはたくさん転がっていたのだな、と今更ながら気づいた。俺、遅いなほんと。 昔は、今考えればバカ

    Webとリアルのバランス - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/02/29
    共感。ウェブにあっても無駄なことを求めるのだから、現実での無駄で空虚なおしゃべりを叩く意味は無いのではないかと最近思う。
  • Web上のコミュニティの寿命を考える - インターネットの真の姿とは

    人は、集まれば群れたがる。実社会でしばしば見られる現象だが、Webでもそれは変わらない。 趣味が一緒の仲間が集まるWeb上の小さなコミュニティは、mixiやゲーム、サービスやブログなどをはじめ、Webのいたるところに存在する。人数は数人から多い所では千人単位となる。これらはWebというつながりの世界において生まれた情報縁といえる。何か共通する部分や趣味を一つ持つことからつながりは始まるが、中にいる人々は、全然自分と違うタイプもいれば、似たタイプもいる。まさに偶然の出会いである。 ただ、こういったWebコミュニティは流動的で、やがて人々は様々な理由によってコミュニティを離れていく。様々な人との出会いがあり、別れもある。コミュニティ自体が廃れていくことだってある。 やめる理由としては、単に興味がうせた、飽きたなどによる自然消滅が主で、他にもコミュニティ内での仲たがいや、参加度などによって、人々

    Web上のコミュニティの寿命を考える - インターネットの真の姿とは
  • Webに同期的な議論サイトができないかな - インターネットの真の姿とは

    Webでは、旬の話題や議論が瞬間的に一気に高まる現象がしばしば見られる。ブログレーダーやkizasiは、その旬の話題を逃さずつかむための補助サービスといえる。 やがてまとめサイトやニュースサイト、まとめエントリなどによって議論がまとめられ、話は収束していく。元々結論の出しにくい話題が多く、推測や独自の視点、論法によって、ブロガーたちがエントリを発信していく。ちなみにその発火点は、読者の多さからアルファブロガーであることが多い。 ブログのエントリは、対話ではなく、自身の思索によって深められたものであることが多く、文章の性格として、いいっぱなしとなって終わる形が多い。まずはエントリを書いてみて問題提起し、読者やその他トラックバック、ブロガーなどの反応を見る形だ。その話題が刺激的なものであった場合、別のブロガーがいつき、一部引用、もとい、全体的な内容を批判する形で、エントリが増殖していく。 た

    Webに同期的な議論サイトができないかな - インターネットの真の姿とは
    n-e
    n-e 2008/02/24
    増田+何か 的な感じがした
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