【現代都市空間におけるコミュニケーション適応戦略の、幾つかのバリエーションについて】2008/02/24 今年はこのウェブサイトの更新を少し遅れ気味なわけだが、その分のエネルギーをネトラジに割り当てて、リスナーの方とのやりとりを体験させていただいている。ネトラジのなかで私は、自意識(例えばマズローの言葉を使えば承認欲求、所属欲求あたりが該当するような)を現代の私達やオタク趣味愛好家がどのように満たしているのか・また、満たしかたによって何か問題となることが発生しえるのか、を主要なテーマとして連載しているが、かつての地域社会的コミュニティのなかで自意識を満たすのと、現代の都市空間やインターネット空間で自意識を満たすのでは、手法も副作用も随分と違ったものになっていると思う。その、誰もが否応なく直面しているであろう変化を踏まえたうえで、21世紀風の、自意識の様々な備給経路・備給形態について考えなけ
Œ»‘ã“sŽs‹óŠÔ‚É‚¨‚¯‚éƒRƒ~ƒ ƒjƒP�[ƒVƒ‡ƒ““K‰ž�í—ª‚Ì�AŠô‚‚©‚̃oƒŠƒG�[ƒVƒ‡ƒ“‚ɂ‚¢‚Ä(”Ä“K�Š‘®) 2/23のネットラジオのなかでは喋りきれなかった事として、現代都市空間におけるコミュニケーション適応戦略の、幾つかのバリエーションについて紹介してみたのが上記リンク先の文章です。 地域社会という共通理解のバックボーンが無くなり、現代の都市空間のなかで文化的に細切れになった状況のなかでコミュニケーションを余儀なくされる私達は、例えばオタクのように、コンテンツを媒介物としたコミュニケーションを行ったり、店員-客といった立場の文脈の内側で、それに沿った形でコミュニケーションを行ったりする機会が多いと思います。また、そのようなコミュニケーションはお互いのストレスを減らし省力化したなかでやりとりを達成したり承認欲求を満た
Webでは、旬の話題や議論が瞬間的に一気に高まる現象がしばしば見られる。ブログレーダーやkizasiは、その旬の話題を逃さずつかむための補助サービスといえる。 やがてまとめサイトやニュースサイト、まとめエントリなどによって議論がまとめられ、話は収束していく。元々結論の出しにくい話題が多く、推測や独自の視点、論法によって、ブロガーたちがエントリを発信していく。ちなみにその発火点は、読者の多さからアルファブロガーであることが多い。 ブログのエントリは、対話ではなく、自身の思索によって深められたものであることが多く、文章の性格として、いいっぱなしとなって終わる形が多い。まずはエントリを書いてみて問題提起し、読者やその他トラックバック、ブロガーなどの反応を見る形だ。その話題が刺激的なものであった場合、別のブロガーが食いつき、一部引用、もとい、全体的な内容を批判する形で、エントリが増殖していく。 た
世も末ですね、この手の感性って何でしょう。だいたい物流管理のために開発されたアクティブタグを子供の登下校管理に使おうなんて馬鹿なこと誰が思いついたんだか不思議でしょうがないのです。最も到達距離の長い400MHz帯アクティブタグでも20mしか飛ばない以上、センサーのあるところでしか位置を識別できないんですよ。登下校監視だけなら監視カメラ+顔認証で充分だし、下校中の位置監視や誘拐時の対応をしようとすると携帯電話の方がずっと有用で副作用もないのです。まだ子供に携帯を持たせたくなければ、機能を制限するなり携帯電話技術を利用した廉価な位置特定端末をつくればいい訳で。 ベンダー担当者「児童につけたタグが発する電波を受信して、児童の位置や行動がわかります。」、当方「むしろ誘拐などの犯罪を幇助しませんか?」、ベンダー担当者「はい、その通りです。自分の子供にはタグをつけさせないので大丈夫です」、当方「そんな
もう15年も前なんだねー、俺の思春期とか。来月早々に31歳だよ、31歳。30代は大人げなく始まって早々に挫折した。なんか時間が経つのが早すぎて、ああ俺ずいぶんと歳食ったなぁって感じだ。15年も経つと時代って大いに変わっていて、ああ俺がいまあの歳だったら、どんな人生を送っているんだろうとか考える。 雫は設定上、僕の1学年上なので、もし実際にいれば今年29歳になる計算です。しかし、もしも現代が舞台だったら……。 (略) まず確信を持って言えるのは、 雫はブログを持っているね、絶対。 小説家を目指す中学生がまず何をするかって、やっぱりブログに自分の作品をアップするんじゃないでしょうか。 14〜18歳の頃って自分の技術者としての可能性に見切りをつけて、学校新聞の電子化に没頭した。富士通のショールームで業務用OASYSを借りてDTP製版し、つくった新聞は見本としてショールームに置いていたら営業資料と
しばらく前に「日本論をやる」という意味のことをちょっと書いた。だが、僕にとって「日本論」とは、日本にあるものについて書くというよりも、逆に日本にないものについて書くことだ。むろん、これまでは日本にあるもので十分に事足りた。そもそも、日本は歴史的に見ても明らかに特殊な国であり、またその特殊さが長く一種のアドバンテージになっていたからである。しかし、いまその優位を無条件で肯定できると考えるのは、いささかお気楽な態度だろう。 実際、いまの日本文化は表面上、ちょっとした空白期になっている。たとえば、ついこのあいだまでいわゆる「アキバ系」の表現が日本を騒がせていた。そして、一部ではそこに、国際競争力を備えた日本の新しい文化産業があると期待されていた。ところが、メディアや産業界がどう捉えているかは別にして、新興の「アキバ系」文化は――ライトノベルにせよノベルゲームにせよ――、現実には手持ちのカードを
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