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2008年7月15日のブックマーク (6件)

  • 『わが子を自分探し病から守る 前編』へのコメント

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    『わが子を自分探し病から守る 前編』へのコメント
    n-e
    n-e 2008/07/15
    "他者へ向けているはずの発言が思考として自己完結しちゃう":あるある
  • わが子を自分探し病から守る 後編

    わが子を自分探し病から守る 前編 からの続きですわが子を自分探し病から守る 前編 http://anond.hatelabo.jp/20080715002131 からの続きです。 関係は必ずしも双方向ではないのがポイントもちろん、夫婦に限らず、友人でも親子でも兄弟でもどんな関係でも、存在意義を確かめられる関係は成立し得ると思います。夫婦が一番やりやすいとは思いますが。 そして、その関係にはきちんとした双方向性が必ずしも成立するわけではないのがポイントです。例えば赤ちゃんを守り育てる母親のように、それが一方通行の無償の奉仕という関係でも、その関係で母親が自分の存在意義を確かめるのは、決しておかしなことではありません。 だから、二次元世界の住人との間でも、それはそれで成立すると思います。それは、ある種の宗教における神様的な存在との関係と同じものです。 二次元世界の住人や神様的な存在は、熱烈なフ

    わが子を自分探し病から守る 後編
    n-e
    n-e 2008/07/15
    "自分勝手な物語であるときちんと自覚する"//独り身に存在価値は無いですか、というと煽りだけど、"「存在意義のある自分」"であるために社会の中の人との関係性の中で調整していく、といえばまぁ同じことか。
  • わが子を自分探し病から守る 前編

    あなたも私も自分探し病あなたに漠然とした質問をひとつします。 深く考えずにとりあえず答えてみてください。 「答えはどこにあると思いますか?」 当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。 でも、答えてください。 反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。 何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。 答えましたか? これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。 「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。 このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。 「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不意ながら。

    わが子を自分探し病から守る 前編
    n-e
    n-e 2008/07/15
    「答えはどこにあると思いますか?」->どこにも無い,と思った //"個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無い"
  • 情報と向きあうときに気をつけること

    情報と付き合うときに、私は二つのことに気をつけている。一つは断片的な情報を避け、体系的な情報に取り組むということ。もう片方は、客観的にではなく、自分の問題意識に従って情報と向きあうということだ。 情報は麻薬になりえる なぜ、こうしたことを習慣にしているのか。その答のうちの一つは、情報とは麻薬にもなりうるということだ。情報とは無限にあり、そうした無限としての情報は常に不毛をもたらす。あたかも不死がまさしく生の意味の否定につながっているように。 古人はこのことを明晰に語った。いわく、一粒の麦、もし落ちて死なずんば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 もしくはより簡潔に、有終の美、と。この言葉の意味するところ、それは美や意味 ―― つまり ”実り” ―― とは有限においてはじめてありえるということ。すなわち無限には美も意味もなく、ただひたすらに不毛が広がるということだ。無限のイメ

    n-e
    n-e 2008/07/15
    "情報とはつねに過去の事実であるか仮説に過ぎない。それが有益であるのは、実際にそれを実行に移したときだけ" "今という時間を自分の力で生きてゆくということ" "大切なこと、それは、主体的に生きるということ"
  • 一日が加速してゆく - インターネットの真の姿とは

    日々の中に自分を取り戻す瞬間がないと、一日はどんどん加速していき、自分という意識を失っていくように思える。生きているのが自分自身なのか、世界の傍観者であるか、その区別が少しあいまいになる。 一度加速しだすと、一時間でも、一日も、一カ月もあっという間に過ぎる。自分はその間時を過ごしたのか、記憶があいまいななかで時間がすぎていく。その中の自分という存在は、とても機械的で、無機質だ。自分が日々の成果を挙げたという数字だけに注目がいき、その中で自分が何を感じたのか、何を思ったのか、どう考えているのかなどといった「余分な」情報はそぎ落とされていく。 ただひたすらに生産と活動にいそしむ毎日は、すばらしい理想的な人間でもあり、よくみられる日常の風景でもある。それはとても自分が充実しているときなのかもしれないし、加速が別に、悪いとは思わない。 ただ、加速しすぎた末に、自分が何をしたかったのか。その目的をど

    一日が加速してゆく - インターネットの真の姿とは
  • なぜiPhoneは「ケータイネット世代のきもち」がわからないのか   - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    テクノロジーはオプティミズ(楽観主義)を生み出す テクノロジーにはある種のオプティミズ(楽観主義)がつきものです。このようなオプティミズを支えているのは「テクノロジーの外挿性」と言うべきものです。たとえば図表上にある2点があると、その2点を通る1の直線が引くことができます。この2点を繋ぐことは内挿ですが、その直線を2点の外側へと延長することが外挿です。外挿された直線は見かけ上は無限に延ばすことができます。 統計的にいえば、近似線の法則性はデータ範囲内での成立するものであって、外挿には根拠がありません。ただ多くにおいて人は内挿でとどめることなどできません。とくにデータが数値化されやすい科学技術において、「外挿する欲望」に打ち勝つことができるでしょうか。すなわちテクノロジーの外挿性は夢の未来というオプティミズ(楽観主義)を生みます。 そしてこのようなテクノロジーの外挿思考が新たな技術開発を生