タグ

ブックマーク / deadletter.hmc5.com (4)

  • シニシズムの放棄について (Dead Letter Blog)

    mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。 排外主義者、あるいは日曜サヨク 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 論点は2つ。 ・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか? ・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか? 前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。 仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどの

  • 「忘れる」という権利 (Dead Letter Blog)

    前回のEntryでは、被害者が非の打ち所のない・何も責めを負うべきところのない人間であったとしても、彼らが共感・同情心を世間から調達し続けられる保証はない、従って「被害者の人権の保障」を巡る「ゲーム」は被害者にとって苛酷である、という主張をした。 今回はもう少し踏み込んでみる。 藤井誠二はこのようなことを言っている。「愛する家族が殺されたら、復讐したいと思うのは当たり前」であり、それは「ごく当たり前の人間の感情や情緒」であると。 ここで先に結論を言っておく。僕は「そうは思わない」。 なぜなら人間は「忘れてしまう」生き物だからである。激しく恋焦がれる「感情」も月日と共に消え去っていくのが普通だし、愛する人が目の前で死ぬ絶望感のそのありありとした生々しさでさえ時間が奪い去ってしまう。憎しみも感情である以上またそうである。藤井が「人間としてそれが当たり前」という論理で押し通そうとするのなら、僕

    na23
    na23 2007/09/04
    同意。
  • 「被害者の人権」は普遍的か? (Dead Letter Blog)

    仮に子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺されたもしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。 さてその被害者遺族=夫がいかにも美味そうにタバコの煙をくゆらせながら記者会見でこのように主張するのである。 「犯人を決して許すことが出来ない。彼は許されないことをした。命をもって償わなければならない。」 光市母子殺人事件の被害者遺族である村氏はもちろん上記のような人間であるどころか、それとは正反対にあるような人である(ように少なくとも僕には「見える」)。彼は生真面目なサラリーマンであり、そして大恋愛の末結ばれたと待望の一人娘を一途に愛す良き家庭人でもあった。彼の家庭は現代の社会に

    na23
    na23 2007/09/04
    「この社会には母が死んだ時、自分の家族が犯罪事件に巻き込まれた時、振舞うべきフォーマットが存在し、その通りに「お芝居」をしない人間は激しい憎悪の対象になる」
  • Dead Letter Blog - 自爆と倫理性

    それから、これだけはいっておきたいが、アラブの自爆テロは絶対に我々の言う特攻隊ではない。特攻隊は決して無辜の人を狙ったのではない。特攻隊は狂信者じゃない。当に悩み、悲しみ、迷いながら、自分の親、兄弟を守るために死んでいったんだ。それでなければ納得できない。(1)一体どの程度まで「信仰に狂えば」、自らの命を犠牲にして敵を攻撃することが出来るようになるのだろうか?来ならば、そこが明らかになって初めて僕たちはその人を「狂信者」と名指すことが出来る(または逆に「狂信者ではない」と言及することが出来る)。けれども多くの場合人は、「自らの命を犠牲にして敵を攻撃する」人間を単に「狂信者」と呼んでいるだけである。自爆攻撃行うアラブ人も、特攻を行った日人も、第三者(例えばアメリカ)からすれば「狂信者」だと等しく括られている。それが「狂信者」という語に関する一般的な語用論的事実である。 一見、石原慎太郎

    na23
    na23 2007/06/10
    あと栗本薫。
  • 1