安倍首相と会食して絶賛売り出し中の国際政治学者三浦さん。「大日本帝国が..人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、1943-45年のせいぜい2年間ほど」 えーっ!国家総動員法前でも1933年には小林多喜二が特高の拷問で殺され、3… https://t.co/YXzlSt4fgS
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空襲の安全神話 1枚の写真をご覧いただきたい。 畳の上に炎があり、男女3人が水をまいている。昭和13年に東部軍司令部の監修で作られた12枚組ポスターの一つで、今でいう政府広報である。表題には「落下した焼夷弾の処理」とある。 それにしても不思議な光景である。屋根を突き破って落ちてきた割には弱々しい炎。天井や畳は燃えていない。焼夷弾の間近に迫って怖くないのか。アメリカ軍の焼夷弾はその程度のものなのか。一杯目のバケツで水をかけた後は、一体どうするのか。この一つの炎のために次々とバケツリレーをするのか。謎が深まる。 もう1枚。同じ12枚組の1つである。 ショベルの先に小さな「焼夷弾」らしき物体があり、「折よくば戸外に投出せ」と書かれている。こちらも、畳や障子はまったく無傷である。 こんな対処法が可能とは思えない。実戦で使用された焼夷弾は、発火装置と燃焼剤が一体となっており、投下されると数十メートル
(CNN) ハワイ大学の研究所は、第2次世界大戦後の1946年に米海軍によって沈められた旧日本軍の巨大潜水艦「伊400型」が、オアフ島沖の海底に沈んでいるのを発見したと発表した。 伊400型潜水艦は、オアフ島南西沖の深さ約700メートルの海底で8月に発見され、米国務省と日本政府に連絡した後に発表したという。 伊400型潜水艦は全長約120メートル。姉妹艦2隻と合わせて当時としては世界最大の潜水艦だった。燃料補給を行わずに世界のどこへでも到達できる能力を持ち、当初は米本土を攻撃することも想定。800キロあまりの爆弾を搭載できる翼折りたたみ式の水上機3機を格納し、事実上の潜水母艦としての性能を持っていた。 結局米本土攻撃には使われず、限定的に運用されたのみで1945年の終戦を迎えた。 今回見つかったのは、終戦時に米海軍が拿捕した日本の潜水艦5隻の中の1隻で、調査のためハワイに送られていた。しか
終戦後も約4年にわたり中国での戦闘を強いられた元山西省残留日本兵・稲葉績(いさお)さん(89)=さいたま市=の証言集会が9日、川崎市幸区で開かれた。残留命令を受けて山西省にとどまり、八路軍(共産党軍)との激闘で多くの日本兵が「戦後」とされる時期に戦死した事実を詳細に語った。 「中国山西省日本軍残留問題」として一般的に知られる。終戦後も2600人が現地にとどまって国民党軍とともに共産党軍と戦い、4年間で約560人が戦死した。ポツダム宣言で定めた武装解除に反する行為となるため、日本政府はいまでも軍命による残留を認めず、兵士らが自らの意志で中国の内戦に加わったとしている。 稲葉さんは1943年に学徒動員で陸軍に入隊。中国戦線に送られ山西省で終戦を迎えた。 証言集会では、46年2月上官に呼ばれた際のやりとりを述懐。「帰国の話で呼ばれたと思ったが、上官からは『作戦命令』が出された。3分の1の兵
牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 生涯 軍人官僚として 参謀本部に勤務する佐官時代の牟田口廉也 佐賀市(現)で三人兄弟の次男として出生[1]。生家の福地家は鍋島藩の士族として古い家柄で、実父の福地信敬も官吏として公務に就いており、下関条約で日本領となった台湾で裁判所書記官を務め、のちに判事に任用された[2]。しかし、家庭環境には恵まれておらず、廉也は後年になって、実父のことをほとんど語ることはなく「兄と私は孤児同様にして育った」と振り返っている[3]。 廉也の実母の生家は、福地家の遠縁にあたる同じ佐賀藩士族の牟田口家であったが[1]、後継ぎがなかったことから、早く
先の大戦で負傷や病気をした元兵士でつくる「日本傷痍軍人会」が、会員の高齢化で解散することになり、3日、東京都内で式典が行われました。 戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に平和を訴え続けた活動が、戦後68年で1つの区切りを迎えました。 日本傷痍軍人会は、先の大戦で戦闘中に負傷したり戦地で病気になったりした元兵士が作る団体で、戦後も仕事に就くことができないなど厳しい生活が続く人が多いなか、国に援護の充実を求めてきました。 戦後68年がたって、35万人いた会員は5000人に減り、残った会員も平均年齢が92歳と高齢化が進んでいることから、来月末で解散することを決めました。 3日、東京・渋谷区の明治神宮会館で創立60年の記念式典と解散式が行われ、全国の会員らおよそ1200人が出席しました。 記念式典では、天皇陛下が「戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が、決して忘れられることなく、皆さんの平和
戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!(1)/平間洋一(元防衛大学校教授) PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 9月29日(日)20時23分配信 《『歴史街道』2013年10月号より》 太平洋戦争のターニングポイントとされる戦いにおいて、戦艦大和が効果的に運用されていたら、勝敗は逆転し、日本が優勢となる可能性は高かった。さらに戦術的レベルに留まらず、戦略的活用に踏み切っていれば、大和は世界大戦の帰趨さえ変えてしまう力を秘めていたのである。 ◆ミッドウェー海戦の IF◆ 戦後の日本では、大和をして「万里の長城、ピラミッドと並ぶ、三大馬鹿」とまで評する声がある。まさに何をかいわんや。確かに、大和はその実力を発揮する機会を与えられなかったが、それだけを理由に「無用の長物」と批判するのは見当違いも甚だしい。それはスポーツにおいて、出場機会を与えられなかった名選手を、
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