山口県下関市出身。1928年(昭和3年)3月、下関商業実践学校を卒業。 1939年(昭和14年)頃から満鉄社員会で左翼活動。1943年(昭和18年)、日本の植民地政策を賛美した本『後藤新平』を上梓。同書を上梓した過去を隠し通したことから、のちに日本共産党から筆誅を加えられた[1]。1945年(昭和20年)、日本人民主連盟在華共産主義者同盟に参加。 1947年(昭和22年)1月、帰国し、全駐留軍労働組合で活動。 1947年、日本共産党に入党し、党山口県西部地区委員長。 1948年(昭和23年)、党山口県委員。 1949年(昭和24年)、党山口県常任委員、党中国地方常任委員。被爆まもない占領下の広島で原水爆禁止運動を開始。当時共産党中央はアメリカ占領軍を解放軍と規定していたためこの運動を非難した。 1950年(昭和25年)8月、戦後初の原水爆禁止の集会を決行(当時非合法であったこの集会の模様は