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fudokiに関するnabinnoのブックマーク (3)

  • 口訳・常陸国風土記

    ◆ 序  「衣手、常陸の国」 常陸の国の司(つかさ)が申し上げます。古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語を。 古へは、相模の国の足柄の坂(やま)より東の諸々の県(あがた)は、すべて吾の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。ただ新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(な か)・久慈(く じ)・多珂(た か)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた。 後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろししし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向(たかむこ)臣や中臣幡織田(はとり だ)連(むらじ)らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である。 行き来するのに、湖(うみ)を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いてゐるので、まっすぐ行ける道、つまり直通(ひたみち)といふことから、「ひたち」の名が

  • 衣袖漬常陸國風土記 總記、新治、筑波、信太、茨城、行方郡

    一、總記 常陸國司(くにのつかさ)解(げ)。申(まをす)古老相傳舊聞(ふること)事。 問國郡(くにこほり)舊事,古老(ふるきおきな)答曰:古(いにしへ)者,自相摸(さがむ)國足柄岳坂(あしがらのやまさか)以東諸縣(もろもろのあがた),惣(すべて)稱我姬國(あづまのくに)。【○我姬,亦作吾嬬(あづま)、吾(あづま),東也。】是當時(このとき),不言常陸(ひたち)。唯(ただ)稱新治(にひばり)、筑波(つくは)、茨城(うばらき)、那賀(なか)、久慈(くじ)、多珂(たか)國,各(おのもおのも)遣造(みやつこ)、別(わけ),令檢校(かとらし)。 其後,至難波長柄豐前大宮(なにはのながらのとよさきのおほみや)臨軒(あめのしたしろしめしし)天皇(孝德)之世(みよ),遣高向臣(たかむくのおみ)、中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)等,惣領(すべをさめ)自坂已東(ひむがし)之國。于時,我姬之道(あづ

  • 風土記 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "風土記" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2018年4月) 奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした[2]。 『続日紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日、先発グレゴリオ暦6月3日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意

    風土記 - Wikipedia
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