田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。元神奈川県議会議員田川誠治の長男。 新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。リベラル派、進歩主義派の代表的な政治家だった。 経歴[編集] 神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主の家系。横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1941年12月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。朝日新聞社に入社したが、翌年に陸軍・近衛歩兵第5連隊補充隊(東部第8連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。退社後、松村謙三衆議院議員(元文部大臣)秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に初当選。以後旧神奈川2区から11回連続当選。 自由民主党時代は「ハト派」議員として活動し、科学技術政務次官などを歴任。後に旧神奈川2区から小泉純一郎が出馬
日中双方の新聞記者交換に関するメモ(にっちゅうそうほうのしんぶんきしゃこうかんにかんするメモ)は、日中国交正常化前の日本と中華人民共和国の間における記者の相互常駐に関する協定であり、日中記者交換協定、記者交換取極[1]とも呼ばれていた。 1964年の日中LT貿易にて結ばれ、のちに1972年の日中国交正常化により失効した後、新たな記者交換取極が交わされた[1]。 概要[編集] 1952年(昭和27年)、日本は、台湾の中華民国との間「日本国と中華民国との間の平和条約」(日華平和条約)を締結した。これにより、ともに中国における正統な政府であることを主張する中国国民党政府と1949年(昭和24年)中華人民共和国建国を宣言し北京を首都とする中国共産党政府のうち、日本は中華民国政府を「中国の正統な政府」と認めて国交を結んだ。 その後、紆余曲折を経て、1962年(昭和37年)に日本と共産党政府との間で「
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