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koishikawa-oyakuenに関するnabinnoのブックマーク (5)

  • 徳川吉宗公が「小石川養生所」でやろうとしたこと。 – 薬プレッソ

    小石川植物園に勤務する分類学者から、薬用植物に関する知見を披露していただいた「小石川植物園に行って教授に訊いてきた『薬剤師にしか通じない話』」。 そこで聞くことのできた話題は、「薬」というトピックを取り巻いて幅広く、また歴史的に見ても興味深い史実が大いに含まれるものでした。 植物園内に残る数々の史跡の中から、今回は「小石川養生所」についてご紹介します。 「養生所」ってそもそも何? 小石川養生所は、別名「施薬院」とも呼ばれます。その名の通り「薬を施し治療する」施設ですが、歴史的に「貧しい庶民を救済する」目的を持った施設をこのように呼び、施薬院の歴史は伝承上、奈良時代にまでさかのぼります。 字義通りにとらえれば、現代で言う「薬局」に近い施設のようにも思えますが、「入院させて、治るまでいてもらう施設だった」ということです。 「井戸を取り囲むような形で母屋が建っていて、入院病棟は母屋に直角にこう連

    徳川吉宗公が「小石川養生所」でやろうとしたこと。 – 薬プレッソ
  • 小川笙船 - Wikipedia

    小川 笙船(おがわ しょうせん、寛文12年(1672年) - 宝暦10年6月14日(1760年7月26日))は、江戸時代中期の町医者、漢方医。諱は弘治。江戸幕府の無料の医療施設である小石川養生所の設立運営に貢献した。 山周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の主人公「赤ひげ先生」こと新出去定のモデルとして知られる。 生涯[編集] 寛文12年(1672年)、小川利重の子として生まれる。伊予国の戦国大名・小川祐忠の子孫にあたる。 享保6年(1721年)12月、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が設置していた目安箱に、江戸市中の貧困層への診療施設となる施薬院の設立を求める意見を投書した[1]。この笙船の上書は採用され、享保7年(1722年)正月に吉宗は有馬氏倫に施薬院の設立を命じた[1]。設立にあたり笙船は町奉行の中山時春と大岡忠相から意見を聴取された[1]。ところが、笙船の唱える計画実現に困難さを感じた有馬氏

  • 創設300周年の小石川養生所跡を訪問

    令和4年(2022年)12月5日(月) / 日医ニュース 創設300周年の小石川養生所跡を訪問 神村常任理事・有床診療所委員会委員 000 印刷 神村裕子常任理事と齋藤義郎有床診療所委員会委員長(徳島県医師会長)及び河野雅行副委員長(宮崎県医師会長)他7名の委員は11月9日、第1回有床診療所委員会の開催に先立ち、小石川養生所跡を訪問した。 小石川養生所は、徳川吉宗将軍の時代に町医者であった小川笙船(しょうせん)が目安箱に投書したことにより、ちょうど300年前の1722年に小石川薬園内に創設され、江戸時代を通じて約140年間、内科、外科、眼科を診療科として、江戸の貧しい町民に無償で医療を提供していた施設である。その創設日となる12月4日は、現代の有床診療所とも理念が共通することから、「有床診療所の日」に制定されている。 今回訪れたその跡地は、2012年9月19日に「小石川植物園(御薬園跡及び

    創設300周年の小石川養生所跡を訪問
  • 小石川養生所 - Wikipedia

    小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設。享保から幕末まで140年あまり貧民救済施設として機能した。 享保改革の下層民対策と養生所計画[編集] 江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。 将軍徳川吉宗は享保6年(1721年)7月、日橋に高札を立て、和田倉御門近くの評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回、目安箱を設置することを公示していた[1]。同年12月、漢方医の小川笙船はこの目安箱を利用して施薬院の設置を嘆願する投書を行った[1]。 享保7年(1722年)正月、吉宗は笙船の上書を取り上げ、有馬氏倫に施薬院の設立を命じた[1]。有馬氏倫の命を受けた町奉行の中山時春と大岡忠相は大岡邸に笙船を呼び意見を聴

    小石川養生所 - Wikipedia
  • 小石川御薬園 | 小石川植物園

    小石川植物園の敷地は承応元(1652)年に館林藩下屋敷が設けられたところで、白山御殿と呼ばれ、幼い藩主松平徳松の居邸でした。 徳松が5代将軍綱吉となった後、貞享元(1684)年に、現在の南麻布にあった幕府の南薬園が廃止され、白山御殿の敷地の一部が新たに薬園とされて「小石川御薬園」と呼ばれるようになりました。8代将軍吉宗の享保6(1721)年に御薬園が御殿地全体に拡張され、面積約4万5千坪のほぼ現在の植物園の形となりました(地図参照)。 御薬園は御番医師の木下道円が管理していましたが、芥川小野寺元風と交代しました。さらに享保の拡張にともない、精子発見のイチョウのすぐ西側あたりを境として、西北側半分を芥川小野寺、東南側半分を岡田利左衛門が管理することとなりました。 それぞれの屋敷には御薬種干場(乾薬場)があり、園内で生産された薬草を干して調整するために用いられていました。 岡田利左衛門の管理地

    小石川御薬園 | 小石川植物園
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