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logicとlaw-of-exclued-middleに関するnabinnoのブックマーク (3)

  • 千年の悦楽 一夜の彷徨: 埴谷雄高 『自同律の不快』とは?

    埴谷雄高と言えば『自同律の不快』という言葉に象徴されるだろう。聞き慣れない言葉であるが「自同律」とは論理学で言うところの「同一律」のことだと言われている。 ではその「同一律」とは何か? 「AはAである」と表す文章式のことである。このことから、埴谷雄高の言う『自同律の不快』とは“「(私は)(私である)」ということが不快”ということを言っているようなのだ。  しかし、「主辞」である(“私は”)と「賓辞」である(“私である”)が同じであることが一体何故不快なのであろうか?  「(私は)(私である)」からこそ“私”なのであって、それ以外の者であったら人格障害を起こしているとしか考えられない。であるにも関わらず「(私は)(私である)」ことが不快と言う埴谷雄高の言う『自同律の不快』とは何ぞや? 統合失調症でない限り、誰しも「(私は)(私である)」ということを前提として生きています。それにも関わらず一体

    nabinno
    nabinno 2013/01/03
    In other words it's a circular reference error.
  • Togetter - 「山本一郎(切込隊長 @ kirik )さん、排中律と対偶について語る。」

    「排中律は詭弁」「対偶は常に真ならず」だそうです。とりあえずお酒は飲んでなかったようで。 http://bit.ly/fMWnb3 (Wikipedia: 排中律 ) http://bit.ly/eUzrLz (Wikipedia: 対偶_(論理学) )

    Togetter - 「山本一郎(切込隊長 @ kirik )さん、排中律と対偶について語る。」
    nabinno
    nabinno 2011/06/05
    修辞疑問が切り返されてしまった人の結末。
  • 排中律 - Wikipedia

    排中律(はいちゅうりつ、英: Law of excluded middle、仏: Principe du tiers exclu)とは、論理学において、任意の命題 P に対し「P であるか、または P でない」という命題は常に成り立つという原理である。 ラテン語で「第三の命題が排除される原理」 Principium tertii exclusiあるいは「第三の命題(可能性)は存在しない」 Tertium non daturと称され、英語ではLaw of excluded middle(排中律・排中原理・排中法)または Law of the excluded third(排除される第三者の原理[1]、第三者拒斥の原理[2])と呼ばれる。 排中律は任意の命題Pに対してそれが成り立つか成り立たないかのいずれか一方であって、その中間は無いことを述べた論理学の法則であり、 P ∨ ¬P はつねに真(

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