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nestorianismに関するnabinnoのブックマーク (3)

  • 佐伯好郎 - Wikipedia

    佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9月15日)広島県 - 1965年6月26日)は、日言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。英語名は「ピーター・(ヨシロウ・)サエキ」。 概要[編集] 言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。 経歴[編集] 大学卒業まで[編集] 広島県佐伯郡(現・廿日市市)で父・友七と母・トヨの間に生まれる(生家は厳島神社神主職を務めた佐伯氏の流れをくむとされる)。長じ

  • 大秦寺 - Wikipedia

    大秦塔 大秦寺(だいしんじ)は、中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の寺院(教会)の一般名称である。唐の時代、長安に存在した大秦寺が有名。 中国への景教の伝来は、唐代貞観9年(635年)、ネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき太宗の命により、宰相の房玄齢が宣教団の団長阿羅(アラホン、アロベン。英語ではAlopenと表記)を迎えた(『唐会要』)。 阿羅はアッシリア東方教会の使いとして訪れたといわれる(大秦景教流行中国碑)。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。 3年後の貞観12年(638年)に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。この段階では波斯寺(あるいは波斯経寺、波斯はペルシアのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われ

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  • ネストリウス派 - Wikipedia

    サウジアラビア東部州ジュバイルにあるネストリウス派の教会跡 ネストリウス派(英語: Nestorianism, ギリシア語: Νεστοριανισμός)、または東シリア教会は、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオス[注釈 1]により説かれたキリスト教の一派で、東方教会(東方諸教会)に含まれる。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった[1]。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちにはイラクを拠点とする一派アッシリア東方教会などが継承した。 ネストリウス派の見解。キリストの神格と人格が分離している[2] その教義においては、三位一体説およびイエス・キリストの両性説は認めるものの、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つ

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