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  • 白鷺神社 - Wikipedia

    白鷺神社(しらさぎじんじゃ)は、栃木県河内郡上三川町しらさぎ一丁目にある神社[1][2]。上三川町を代表する神社であり[8]、近代社格制度に基づく旧社格は郷社であった[4][5]。祭神の日武尊にゆかりの深い白鷺にちなんだ像や彫刻を境内に配置し[3]、日一と称する平和の剣や干支絵馬が奉納されている[3][9]。また、イヌやネコの健康を願う御朱印の頒布を行っている[10][11]。 歴史[編集] 延暦2年(783年)に、下野国司の平松下野守(文室高島)が建てた祠を起源とする[1][4]。当時、下野国では疫病が流行しており、平松下野守は神託を受けて日武尊を祀ったという[1][3][4]。別の説では、平松下野守の夢に日武尊が現れたため、尊が一時滞在した地に祠を建てて祀ったとする[4]。更に、嘉祥2年(849年)夏に大旱魃が発生し、神のお告げを受け苦心して大石を取り除くと、水が湧き出し、その

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  • 岩船山 - Wikipedia

    一部崩壊前(2008年8月) 一部崩壊後(2011年10月) 南から(2009年1月) 岩船山(いわふねさん[1]、いわふねやま[2])は、北関東の栃木県栃木市(旧・岩舟町)にある、標高172.7メートル[3]の山。足尾山地の最南端に位置する。この山でかつて切り出された岩舟石や所在地の旧町名には「舟」、山名には「船」の字が使われるようになった経緯は不明である[4]。 日三大霊山[5]、日三大地蔵[6]の一つとして名を連ねる。一大霊場として東国の人々の信仰を集めた高勝寺がある。切り立った崖を持つ奇妙な形をしているが、江戸時代から始まった岩舟石の採掘で徐々に山体が現在のように変わった。採石場跡地では1970年代後半以降は、神秘的な景観を生かして、街中ではできない爆発シーンを含む特撮作品などのロケーション撮影に使われている[7]。 2011年3月の東北地方太平洋沖地震(東日大震災)によって

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  • 自治医科大学 - Wikipedia

    学部入試について、医学部ではその設置趣旨[1]に基づき、各都道府県ごとに2名ないし3名を選抜する。また共通テストは採用せず,医学部と看護学部いずれも独自の試験を行う。 また、栃木県が発売元となって地域医療等振興自治宝くじ(地域医療等振興分。旧・へき地医療振興自治宝くじ)が売られており、その収益金は補助金の形で学に交付されている。 地域医療情報研修センター(附属図書館) 医学部は全寮制であり、地域医療に従事する総合医養成という観点から、臨床実習に重点を置いた教育が特徴である。臨床実習のための共用試験(CBT・OSCE)を日の医学部で唯一3年次に行い、4年次から病棟実習を行うというスタンスを取っている。 卒業後は採用枠都道府県の定めにより、公立病院を中心に9年間地域医療に従事することが求められている。9年間には、採用枠都道府県に所在する臨床研修病院・大学病院で行う2年間の臨床研修、2年間の

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  • 国際医療福祉大学 - Wikipedia

    国際医療福祉大学(こくさいいりょうふくしだいがく、英語: International University of Health and Welfare)は、日の私立大学。栃木県大田原市に部を置く学校法人国際医療福祉大学によって運営されている。 概観[編集] 大学全体[編集] 医療福祉専門職の養成とその地位向上をめざし、「日初の医療福祉を専門とする総合大学」として、1995年(平成7年)に、栃木県大田原市に設立された。キャンパスは栃木県、千葉県、東京都、神奈川県に1か所ずつと福岡県に2か所の合計6キャンパスあり、部のある栃木県を始め、千葉県、東京都、静岡県に合計7つの病院がある(関連法人の運営するものは除いた合計値)。 卒業生(国家試験合格者)は社会福祉協議会や医療機関、社会福祉施設などの社会福祉・医療分野や、行政、企業等の分野に就職している。 福岡県にもキャンパスがあるが、これは現

    国際医療福祉大学 - Wikipedia
  • 佐野基綱 - Wikipedia

    佐野 基綱(さの もとつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野氏初代。通称は佐野太郎。または足利基綱とも呼ばれる。 略歴[編集] 藤姓足利氏一門・戸矢子有綱の子として誕生。 宗家である伯父・俊綱とその子・忠綱が、平家方の傘下として常陸国の志田先生義広(頼朝の叔父)と盟約したのに対し、庶家である基綱は父・有綱と共に早くから源氏に味方した。 寿永2年(1183年)2月23日、親族の小山朝政と結び、志田義広の軍勢と野木宮で戦い、これを撃破し宗家の足利父子を敗走させた(野木宮合戦)。同年9月7日に、頼朝の厳命を受けた足利義兼・和田義茂らが渡良瀬川に陣営を取った。足利父子の譜代郎党の桐生六郎の裏切りによって、宗家がついに滅亡した。以降の基綱は、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した[2]。文治3年(1187年)に、義経の武将・多田行綱(多田源

  • 下野国 - Wikipedia

    古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる[1][2]。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という国名の由来と推察されている。 国名の上下については、上総国と下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥などのように前後(または前中後)に分けられた国との違いは不詳である[3]。またこの分裂は史書に無く詳細は

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  • 円安でも工場も戻ってこない栃木、アベノミクスの恩恵届かず - Bloomberg

    Connecting decision makers to a dynamic network of information, people and ideas, Bloomberg quickly and accurately delivers business and financial information, news and insight around the world.

    円安でも工場も戻ってこない栃木、アベノミクスの恩恵届かず - Bloomberg
  • 鬼怒川 - Wikipedia

    鬼怒川(きぬがわ)は、関東平野東部を北から南へと流れ利根川に合流する一級河川である。全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い[2][3]。 江戸時代以前、鬼怒川は常陸川などと共に香取海(太平洋に銚子でつながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の流であったが、利根川が東遷されそれまでの常陸川の河道および太平洋までを流れることになったに伴い、鬼怒川も利根川に注ぐ支流河川とされた。 名称は、当初は毛野国(栃木県・群馬県域の古地名)を流れる川として「毛野川(毛野河)」と記されたが、中世から近世には「衣川(衣河)」や「絹川(絹河)」の字があてられ、明治初期から「鬼怒川」の文字があてられるようになった[4][5]。 上流域にある鬼怒川温泉の略称としても使用される。 地理[編集] 日光国立公園内にある栃木県日光市の鬼怒沼(奥鬼怒)に源を発し、湯西川・男鹿川・大谷川を合わせ、塩谷町南端・さくら市・宇都宮市の

    鬼怒川 - Wikipedia
  • 豊城入彦命 - Wikipedia

    『日書紀』[原 2]によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。

  • 蝦夷 - Wikipedia

    アテルイ、モレの顕彰碑 (京都市清水寺) 蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日列島の東方(現在の東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である[1]。 大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、俘囚と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。 蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征紀)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる[2]。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である[3]。 えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征紀であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とさ

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  • 渡良瀬川 - Wikipedia

    上流にある足尾町の渡良瀬という地名に由来する[2]。伝承によれば、この地名は日光を開山した勝道上人による命名である。勝道上人が川を渡ろうとしたところ、渡るのにちょうど良い浅瀬があったのでその場所を渡良瀬と名づけたという。 およそ5万年前までの流路は、関東平野へ出た大間々町(2006年からみどり市)付近から南向きに深谷市方向へ流れ、利根川へ合流した[3]。大間々町を扇頂とする大間々扇状地を形成した。 その後、渡良瀬川は東向きへ流路を変え、東京湾へ南流する思川の河道へ向かった。すなわち現在の桐生市・足利市・太田市・館林市を通り板倉町へ至り[4]。そこから南下し加須市の旧大利根町域付近で思川と合流した [5][6]。およそ5000年前の縄文海進時はこの渡良瀬川河道には板倉町付近まで東京湾が湾入した。 古代には、渡良瀬川の流は桐生川との合流点(足利市小俣)より下流は太田市との境を蛇行しながら東流

    渡良瀬川 - Wikipedia
  • 琵琶塚古墳 - Wikipedia

    琵琶塚古墳(びわづかこふん)は、栃木県小山市飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 栃木県では第2位の規模の古墳で[1]、6世紀初頭(古墳時代後期)の築造とされる。 栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築造された古墳である。古墳は前方部を南南西に向ける。墳丘の築造では、自然の土ぶくれを利用して設けられた基壇の上に、2段で土盛りがなされている[2]。築造時期については、古墳の形状や出土埴輪から6世紀初頭とされる[1]。 古墳の南方には同じく大規模古墳である摩利支天塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる[3]。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった[3]。 古墳域は1926年(大正15年)2月24日に国の史跡に指定されている[4]。2013年度(平成25年度)からは発掘調査が実施されてお

    琵琶塚古墳 - Wikipedia
  • 摩利支天塚古墳 - Wikipedia

    摩利支天塚古墳(まりしてんづかこふん)は、栃木県小山市飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 栃木県では第3位の規模の古墳で[1]、5世紀末(古墳時代中期)の築造とされる。 栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。古墳は前方部を南西に向ける。墳丘は自然の微高地を利用して築かれており、墳丘上には円筒埴輪が列をなして存在している[2]。築造時期については、古墳の形状や出土埴輪から5世紀末とされる[1]。 古墳の北方には同じく大規模古墳である琵琶塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる[3]。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった[3]。 古墳域は1978年(昭和53年)7月21日に国の史跡に指定され、2002年(平成14年)9月20日に史跡範囲が追加指定された[4]。

    摩利支天塚古墳 - Wikipedia
  • 宇都宮広綱 - Wikipedia

    天文18年(1549年)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が野心を剥き出しにし、宇都宮城を乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。 当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年(1551年)、芳賀高定が謀略を駆使して父の仇である那須高資を殺害。弘治元年(1555年)には、高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死したが、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いて

  • 男体山 - Wikipedia

    栃木県の中西部、日光市街地からいろは坂を登った、中禅寺湖の北岸に位置する。関東地方有数の高山であり、成層火山らしい円錐形の大きな山体は関東一円からよく望まれる。古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂には日光二荒山神社の奥宮が置かれている。また、一等三角点「男体山」(標高 2484.15[1][2]m)が設置されている。 男体山は、日光表連山の女峰山、大真名子山、小真名子山等と並び、日光連山を代表する山であり、周辺の観光地の中禅寺湖、戦場ヶ原や奥日光のランドマーク的存在である。 山名は、東北側の山続きの女峰山との対で付けられたものと考えられる。男女一対の山には、他地域にも多くの例があるが[注釈 1]、男体山と女峰山は、その間に大真名子山、小真名子山という二つの「愛子」を抱え、男体山の北には太郎山を擁し、火山一家を成しているところが特徴的である。 地学的特長[編集] 航空写真。馬蹄形の火口と

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  • 横田頼業 - Wikipedia

    宇都宮頼綱の次男[1]として誕生。母は稲毛重成の娘であり上条時綱は同母兄にあたる。 嘉禎3年(1237年)10月、横田城を築いて居城とし、横田郷千余町を支配して横田氏を名乗る。建長元年(1249年)には、上三川城を築いて居城を移している。寛喜元年(1229年)9月になると兄であり当主・宇都宮泰綱の活動が活発化し、それに伴い頼業や兄弟である時綱、多功宗朝、従兄弟にあたる塩谷親朝、笠間時朝兄弟らと共に幕府に出仕し活躍した。 『吾鏡』には、承久元年(1220年)5月20日の藤原頼経の関東下向の先陣に名を連ねるのを始めとして、数多くの記述にその名が散見され、また、知勇兼備の武将として名高く、歌人として文化的に活躍するだけでなく、『承久軍物語』では、特筆してその武勇が讃えられており、有力御家人として活躍していた事がうかがえる。仁治元年(1240年)には伊予国の守護職に就いていた。 宝治元年6月5日

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 上三川町 - Wikipedia

    上三川町(かみのかわまち)は、栃木県南東部に位置し、河内郡に属する町[1]。現在、河内郡で唯一の自治体となっている。宇都宮市への通勤率は22.8%(平成22年国勢調査)。また、日産自動車栃木工場が町の中央に位置している。 上三川町は関東平野の北部、栃木県中南部に位置し、東京から直線距離で約90km北方に位置する。町域は平地部と河川から成り山は無い。町の北部は宇都宮市、東部は真岡市、西部と南部は下野市に接し、町の中心部には田川が南北に流れ、江川を挟んで真岡市との市町境には鬼怒川が流れる。市西部の下野市堺には東北新幹線と宇都宮線が南北に走り、下野市域にある石橋駅(下野市石橋)には東口が設けられており、当町の最寄駅となっている。 河川:鬼怒川、田川、江川 旧石器時代や縄文時代の生活の跡が確認されており、古くから人々が生活していたと考えられている。 古墳時代に作られたと推定される前方後円墳や大型円

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  • 毛野 - Wikipedia

    北関東の群馬県と栃木県南部を合わせた領域を指す地域名称、またはヤマト王権時代に同地域に築かれていたとされる勢力を指す名称である。史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、「上毛野(かみつけの)」や「下毛野(しもつけの)」の名称が見られ、これらは毛野が分かれた後のものといわれる。律令制施行後は、上毛野は上野国(こうずけのくに:群馬県領域)に、下毛野は那須(栃木県北部)を加えて下野国(しもつけのくに:栃木県領域)と定められた。この過程で「毛」の表記は省略されたが、「け」の読みは残されている。現在でも「毛野」の名残は、上毛・東毛・西毛・両毛という地域表現や、「毛野河」から転訛した鬼怒川(きぬがわ)の名称などに見られ、栃木県足利市には地区名として名前が現存している。 毛野地域の比定地である北関東では、古墳時代に数多くの古墳が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日最大の太田天神山古墳(

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  • 総務省|報道資料|「ICTシニアコミュニティ形成促進プロジェクト」の協力団体を決定

    総務省は、高齢者のICTリテラシーの向上、SNS等のオンラインでのコミュニティ形成及びオフラインでのコミュニティ形成による地域活性化等を目指す「ICTシニアコミュニティ形成促進プロジェクト」に協力していただける地方公共団体の募集を、平成26年7月11日(金)から7月30日(水)まで行いました。 このたび、協力いただける地方公共団体を決定しましたのでお知らせします。 プロジェクトでは、公民館等の公共施設を実証フィールドとして、高齢者のICTリテラシーの向上に資する講習会を実施します。講習会のカリキュラムには、基的なICTの利活用方法にとどまらず、オンライン・オフラインでのコミュニティ形成等も盛り込む予定です。総務省では、プロジェクトの成果展開により、高齢者の社会参画を促進し、地域活性化等に資することを目指しています。 平成26年7月11日(金)から7月30日(水)まで公募を行ったところ

    総務省|報道資料|「ICTシニアコミュニティ形成促進プロジェクト」の協力団体を決定