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warとhistoryに関するnabinnoのブックマーク (17)

  • 倭国大乱 - Wikipedia

    倭国大乱(わこくたいらん)は、魏志倭人伝において記述が見られる、2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる争乱。 倭国の領域は特定されていないが、考古学的にはそれまで大陸との交易により圧倒的に優勢だった北部九州勢力に対して、後の出雲国や吉備国にあたる地域に纒向型前方後円墳の出現に繋がる大規模な弥生墳丘墓が出現する時期と重なるため、列島規模で行われた日史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。 卑弥呼を日書紀に箸墓古墳の被葬者として伝わる倭迹迹日百襲姫命と同一視する立場から、記紀における百襲姫の存命中に起きた戦乱として武埴安彦の反乱や武渟川別による出雲振根誅殺、吉備津彦命による温羅討滅を倭国大乱あるいはその一部の出来事に比定する説が存在する。 他に出雲の国譲り神話や神武東征伝承に比定する説もある。 概要[編集] 中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『

  • 「文明は農業ではなく、戦争によって発達した」:数学モデルによる歴史分析

  • 『ヨーロッパ史における戦争』とか - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

    1 日史と世界史の両方を高校で履修できるか片方しか履修できないかは、年代によってバランバランで、私は高校時代、片方しか履修できなかった。この時日史と世界史のどっちを履修しようか相当悩んだんだが、当時まだ若かりし我が老母は「日史が判らなければ世界史が判るはずがない」とえらく説得力のある言葉を吐いたが、私は世界史を選択した。世界史を選択したことはものすごい正解だった。その後、大学で歴史学の方へ進まなかったのは後悔だが。 世界史の基を学習したい、という方にはマクニール『世界史』をお勧めする。ハードカバーだと一冊。たしかシカゴ大学の世界史の教科書。 世界史 上 (中公文庫 マ 10-3) 作者: ウィリアム・H.マクニール,William H. McNeill,増田義郎,佐々木昭夫出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2008/01/25メディア: 文庫購入: 37人 クリック: 1,

    『ヨーロッパ史における戦争』とか - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記
  • 世界の戦争1000年の歴史(西洋から見た)

    西洋文献に記録された戦いのみでも、一見する価値はある。 ぜひともこの動画を見て、人間は猿はおろか、蟻や蜂、魚と変わりのない、「組織で動く動物」というだけであることを実感してほしい。 なお、この動画は他サイト様からの転載であり、著作権は当方になく不正なアップロードである。 だが、それでも見る価値があると思ったため、投稿させていただいた。 to be continued ああ、後ワーグナーいいよね!

    世界の戦争1000年の歴史(西洋から見た)
  • 東萊城の戦い - Wikipedia

    東萊城の戦い(とうらいじょうのたたかい、朝鮮読み:トンネ)は、文禄元年(1592年)4月14日から15日に行われた、文禄・慶長の役の初期の戦闘の一つである。 背景[編集] 釜山鎮の戦いで釜山と周辺の砦を陥落させた後、日軍は沿岸部の橋頭堡を確保する必要があったが、釜山の内陸、北方数kmの位置には都護府である東萊城という城塞があった。これは山の地形を利用した山城で、北の漢城へ通じる主要道を押さえる要地にあった。それで日軍はまずここに向かった。 概要[編集] 4月13日の日軍襲来の報に接して、東萊府使の宋象賢は城邑の軍民を急いで集めると共に、梁山郡守趙英珪らに周辺軍民の集結を命じた[3]。 慶尚左道の指揮官である慶尚左兵使(兵馬節度使)李玨は、北の兵営城(蔚山)から東萊城に入城したが、釜山鎮陥落を知って顔面蒼白となり、逃げだそうとしたので、宋象賢は押し留めた。しかし李玨は「大将は自らの生命

    東萊城の戦い - Wikipedia
  • 戦場に社会が見える - リアリズムと防衛を学ぶ

    「人類の歴史は、戦争歴史だ」とはよく言ったものです。なぜなら戦争とは、社会の営みの延長線上にあるからです。戦争と軍隊のカタチは、その時代、その社会のあり方と分かちがたく結びついています。 戦争歴史を追うことは、戦争という切り口で、人類の歴史を追うことなのです。 戦争について知ること 戦争や軍隊は、どこか一般社会から遠くかけ離れたもののように、とかく日では思われがちです。 「日軍事史」では、こう述べられています。 軍事とは、軍隊・軍備・戦争など、文字通り軍にかかわることをさす言葉であり、一般には敬遠さ れることの多いテーマかもしれない。しかし、ここ数年の事態を持ち出すまでもなく、戦争や軍隊の 問題は現代に生きる私たち一人ひとりにとって、無関係でいられないものになっている。 … 平和と民主主義の大切さを考える時に、その対極にあるものを敬遠し忌避するだけでは不十分である。…戦争や軍隊の問

    戦場に社会が見える - リアリズムと防衛を学ぶ
    nabinno
    nabinno 2012/05/25
    社会を守るために戦争をしていると仮定すると、人々が把握しきれない拡張した社会・入れ替え可能な社会になった場合、戦争の意味は薄れてくるんだろうね
  • 文禄・慶長の役 - Wikipedia

    将軍 豊臣秀吉 総大将 宇喜多秀家 一番隊 宗義智、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄 二番隊 加藤清正、鍋島直茂、相良長毎 三番隊 黒田長政、大友吉統 四番隊 毛利勝信(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、山田宗昌、島津忠豊 五番隊 福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之(得居通幸)、来島通総 六番隊 小早川隆景、小早川秀包、立花鎮虎(宗茂)、高橋統増、筑紫広門、毛利輝元[注 3] 七番隊[注 4] 宇喜多秀家ほか 八番隊[注 5] 浅野幸長、中川秀政、宮部長煕ほか 九番隊 豊臣秀勝、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲ほか 水軍 九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、亀井茲矩、菅達長、桑山一晴、桑山貞晴、堀内氏善、杉若氏宗 明軍 兵部尚書石星 兵部左侍郎邢玠 兵部右侍郎宋応昌→顧養謙 防海禦倭総兵官(提督)李如松 副総兵(遼東軍)祖承訓

    文禄・慶長の役 - Wikipedia
  • 戊辰戦争 - Wikipedia

    開戦に至る経緯[編集] 四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年(1867年)10月13日、14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下される。 (訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。 朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。来であれば、先帝の喪に服して慎むべきと

    戊辰戦争 - Wikipedia
  • 海援隊 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "海援隊" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年8月) 海援隊旗 二曳(にびき)と呼ばれていた 海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂龍馬が中心となり結成した組織である。1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、物資の運搬や貿易の仲介など[1]商社活動としても評価されている。運輸、開拓、藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活

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  • 大量虐殺 - Wikipedia

    大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ、英: Mass killing[1])とは、人間を意図的に大量に虐殺(英: Massacre)すること。 大量虐殺はジェノサイドの訳語でもある[2][3][4]が、ジェノサイドはジェノサイド条約などで、政治共同体、人種、民族、宗教集団を意図的に破壊することと定義されている[5][6]。 米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。 一般的に、1つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する計画的大量虐殺等の行為は、ジェノサイドと言い、その一部はジェノサイド条約において集団殺害罪(国際法違反)として規定されている。 1936年8月-9月、スペイン内戦初期、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍(ナショナリスト軍)のファシストによる共和主義者の虐殺。この24人の集団墓地は、ス

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  • 十五年戦争 - Wikipedia

    十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月[1])にわたる日の対外戦争、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと[2]。中国では田中上奏文が史実の公式文書として扱われているので「十四年抗戦」の呼称が使われる[3]。 概要[編集] 「十五年戦争」の呼称は、鶴見俊輔が1956年に「知識人の戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかで使用したのが最初とされ、昭和40年以降、一部で使用されるようになり[2]、1980年代に江口圭一が広めるのに大きな役割を果たした[4]。その後、昭和50年代頃からアジア・太平洋戦争の名称の使用が増加した[2]。 段階[編集] 鶴見俊輔は、1. 満洲事変:1931年9月18日 〜、2. 日中戦争:1937年7月7日 〜、3.

  • 日露戦争 - Wikipedia

    日露戦争(にちろせんそう、旧字体:日露戰爭/日魯戰爭、ロシア語: Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月[注釈 3]から1905年9月にかけて大日帝国(日)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた[7]。陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日に割譲された。また日ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するに

    日露戦争 - Wikipedia
  • 南京事件 - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 古い情報を更新する必要があります。(2024年1月) 中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2019年3月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2024年2月) 正確性に疑問が呈されています。(2024年2月) 秦淮河のほとりで死体とともに写真に撮られた日兵 南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を占領した後(もしくはその前後)、数か月にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である[1][2]。南京虐殺事件[2]や南京大虐殺[3]とも呼ばれる。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かについては南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は、南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。 概要[編集] 日中戦争中の

    南京事件 - Wikipedia
  • ユグノー戦争 - Wikipedia

    この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年8月) フランソワ1世 ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。それ以上にルター派と宮廷内で人気のあった人文主義改革運動との区別が曖昧であり、また国王の姉ナバラ王妃マルグリットはルフェーヴル・デタープルなどの改革者たちを異端の嫌疑から庇護していた。だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。 アンリ二世[編集

    ユグノー戦争 - Wikipedia
  • 条約の一覧 - Wikipedia

    条約の一覧(じょうやくのいちらん)は、条約、協定、議定書のうち主なものを編年体でリストにしたもの。 西暦は、原則として締結、採択された年を表す。発効年については、リンク先の記事を参照。 18世紀より前[編集] 紀元前1274年頃 - エジプト・ヒッタイト平和条約 843年 - ヴェルダン条約 - フランク王国の分割相続 870年 - メルセン条約 - フランク王国の最終分割相続 1236年 - ヨーク条約(英語版) 1360年 - ブレティニー条約 1412年 - ルボフラ条約 1420年-トロワ条約 1454年 - ローディの和 - イタリア五大国による和平協定 1479年 - オロモウツの和約 - ハンガリー王によるオーストリア支配 1494年 - トルデシリャス条約 1499年 - バーゼルの和約 1529年 - サラゴサ条約 1555年 - アウクスブルクの和議 1559年 - カ

  • 勝ち組、負け組

    いまどき勝ち組、負け組と言えば多様化した日の産業経済界において、成功を納めて発展する企業と、取り残され斜陽となった産業やビジネスの話の如くに思われますが、その話ではありません。 [1:ハワイの勝ち組] 昭和30年(1955年)の秋に私は海上保安大学の練習船でハワイに 遠洋航海 に行きましたが、その当時ハワイに住む日系人の間には日の敗戦を未だに信じない 勝ち組 と、敗戦の事実を率直に認める 負け組 のグループがありました。( 写真は三代目の、練習船こじま ) 昭和20年 ( 1945年 )9月2日に、東京湾に浮かんだ戦艦 ミズーリ艦上でおこなわれた日の降伏調印式の際の写真に、勝ち組が修正を施してミズーリの マストに、日の丸を掲げている写真を作りました。勝ち組はそのインチキ写真を仲間に見せては、日が太平洋戦争に勝ち、米国が降伏したとする証拠写真にしました。写真は平成4年( 1992年

  • http://homepage3.nifty.com/yoshihito/index.htm

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