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ブックマーク / asahi2nd.blogspot.com (2)

  • 第2章:左派と右派のあいだ──毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか──(2)「現代中国――現在と過去のあいだ」

    4.16.2013 梶谷懐第6回 第1章:左派と右派のあいだ ──毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか──(2) 毛沢東像:新疆ウイグル自治区カシュガル、著者撮影、1997年 ■ 中国の「人権」と新左派 前回の連載で、以下のように書いた。 中国の左派はそもそも「普遍的人権」の尊重というところから出発していない。だから、普遍的人権や言論の自由を盾に政権を批判する、現代中国で言うところの「維権(権利擁護)運動」は、たとえそれが行政によって立ち退きを余儀なくされた人々など、明確に「弱者」の立場に立った行為であっても、左派からは白い目で見られることになる。 ここで、「左派」の主張と、いわゆる人権問題との関係について、近年の中国社会の変化をふまえながらもう一度整理しておこう。 社会主義国家としての中国にとって普遍的人権論、すなわち天賦(てんぷ)人権論は「ブルジョワ階級的民主主義」の思想として

  • 「現代中国:現在と過去のあいだ」第一回 - 朝日出版社第二編集部ブログ

    9.11.2012 梶谷懐第1回 第1章:烏坎村と重慶のあいだ ──公共性と一般意志をめぐる考察──(1) ■ 東アジアにおける「公共性」概念の困難性僕は大学で中国経済について教えている。その職業がら、経済問題を中心に、現代中国を題材としたものを書く機会が多い。最近では、専門家ではない人々を対象にしてものを書いたり喋ったりする機会も少しずつ増えてきたが、正直なところ、そのたびどうも不完全燃焼のような気がして仕方がなかった。それはどうしてなのだろう、と考えたときに、同じ現代中国について論じたものであっても、「専門家」が分析し、アカデミズムあるいはそれに近いところの中で流通する言論と、よりジャーナリスティックで、より多くの読者を獲得する(=大衆受けする)言論との間に前提となる認識や内容面でのギャップがありすぎるからではないか、という考えに行き着く。 前者は、基的に経済学政治学、歴史

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