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ブックマーク / chikyuza.net (5)

  • ご存知ですか。フジ住宅というヘイト企業があることを。 | ちきゅう座

    <澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士> 上には上があるというベきか。あるいは、下にはさらに下があると驚くべきか。オーナーの身勝手なヘイト志向の信念を従業員に押し付けるブラック企業としてはDHCが極め付けと思っていた。が、世の中は広い。DHCに勝るとも劣らぬ企業が関西にあることを知った。これまで知らなかったその社名が、「フジ住宅」 。大阪府岸和田市に社を置く東証1部上場の不動産大手。従業員数は1000人に近く、関連会社を含めると1200名規模だという。 DHCは、デマとヘイトとスラップの3拍子で知られる。フジ住宅は、従業員へのヘイト文書大量配布と、育鵬社教科書の採択運動に社員を動員してきたことで有名になった。どちらのオーナーも、独善と押し付け、嫌韓・反中の信念の強固なことにおいて、兄たりがたく弟たりがたい。 フジ住宅が一躍全国区で有名になったのは、この夏のこと。大阪弁護士が、この会

  • 樺美智子さんの「死の真相」 (60年安保の裏側で) ―60年安保闘争50周年 | ちきゅう座

    <御庄博実(丸屋 博)(みしょうはるみ:まるやひろし):医者・詩人> はじめに 二〇一〇年四月某日、長崎暢子(旧姓・榎)先生に会いました。五十年前、安保デモで樺美智子さんと一緒に国会に突入した3名の東大女子学生の一人です。 東大教授(現代史・インド史)を経て、いま龍谷大学の教授です。 長崎先生から僕に会いたいと、広大名誉教授の金田晋先生(国会突入時の東大文学 部学友会委員長)とご一緒でした。金田先生の伝言で、五十年前の「安保騒動の樺美智子の死」を、心の奥から突き上げる思いで、僕もお聞きしたいことがある!と思いました。 一九六〇年六月の『安保』は、樺美智子さんの死に燃え上がった日を目の前に、時のアメリカ大統領・アイゼンハウワーが直前まで予定していた来日を中止し、ヒロヒト天皇との面会もキャンセルして、急遽マニラから帰国するという国際的事件でした。 日の現代史の中でも特筆する大きな事件です

    nagaichi
    nagaichi 2015/10/20
    扼殺説
  • 重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ(上) - ちきゅう座

    <石井知章(いしいともあき):明治大学教授> はじめに 最近、日では報道される機会がめっきり減ったものの、今回の薄熙来の解任でいわゆる重慶事件の真相のすべてが明らかになったわけでなければ、中国のトップリーダーたちの間で繰り広げられてきた権力闘争に、最終的な幕が下ろされたわけでもない。いつものこととはいえ、この一党独裁国家における情報の根源的非公開性ゆえに、むしろ謎はますます深まるばかりである。 たしかに、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任劇とは、長年にわたる経済改革と開放政策の努力に背を向ける人物として温家宝が薄を断じることで、その政治手法をめぐり、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史的悲劇の再来か」の選択を迫るものであった。その特異ともいえる手法とは、「紅を歌い(唱紅)、黒を打つ(打黒)」、すなわち、毛沢東や中国共産党を讃える文化大革命当時の革命歌などを歌い、か

    nagaichi
    nagaichi 2012/06/23
    「往々にして前近代的なものをその内に含む『伝統社会』へと回帰する中で『革新』が図られてきた中国」
  • 重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ(下) - ちきゅう座

    <石井知章(いしいともあき):明治大学教授> http://chikyuza.net/n/archives/23836より続く。 4、鄧小平と趙紫陽の政治改革の今日的な意味 今回の重慶事件が示すように、仮に部分的にであったとしても、毛沢東主義という名の中国の「伝統」への回帰によって「革新」をもたらそうとする試みとは、文革の際、全面的に復活していった前近代的非合理性を、再び呼び起こすことに帰結するだけである。いいかえれば、毛沢東主義という「伝統」への復帰による「近代化」の推進とは、あたかも清末の洋務運動での「中体西用」(伝統中国を基底にして近代西洋を用いる)がことごとく失敗したように、たんに前近代的なものへの後退、とりわけこの10年余りの間、「新左派」の拡大とともに復活し、ますますその「伝統」の力を強めてきた「封建専制」(=アジア的専制)の再来をもたらすだけなのである。では、いったいここで

  • 関係論としての「国家神道」論 - ちきゅう座

    一 はじめに 日思想史の研究者として知られる子安宣邦が、『現代思想』誌上で国家神道論の連載を始めたのは、二〇〇三年七月号であった。この連載は翌二〇〇四年四月まで続き、その後、『国家と祭祀――国家神道の現在』(青土社、二〇〇四年)として単行化された。その「批判」の対象とされた近代神道研究者からは「誹謗中傷に近い」[1]とも評されたその筆致と内容は、それらの人々に少なからぬ衝撃を与え、反発や批判を呼ぶことともなった。このに端を発する子安の議論への批判については現在、すでに一通り出揃った感があり、今やアップトゥデートなテーマではなくなりつつあると言ってもよいだろう。 筆者はしかし、その議論の成り行きに若干の不満を持っている。こので子安が提起しようとした問題の広がりが、その反論・批判において正当に受け止められているように見えないからである。論文は、そのような問題意識を出発点に据え、「国家

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