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ブックマーク / ueshin.blog.fc2.com (4)

  • 他人の頭の中のわたしが、わたしの死をふせいでくれる?―『働くことがイヤな人のための本』 中島 義道 | 考えるための書評集

    2001年に出たときちょっとしたベストセラーとなったのだが、読まなかった。たぶん自分の好きな哲学の教授になっている人に単調で単純な仕事の苦しみなどわからないだろうと思ったのだろうか。 キレイごととかタテマエの奨励なんてまちがってもいわない中島義道のことだから、ネガティブな仕事観をつきつめてくれるね。 ちょっとひきこもり状態になっていたことやふつうの会社面接の話とか、予備校講師時代の話とか、こういう寄り道や哲学教授でないころの話も聞けて、この経験から中島義道はこういう仕事がイヤな人のためにアドバイスできると思ったのだろうね。 でも大学の教授になっても出している「成功者」なのだから、ちまたのふつうの仕事へのアドバイスが妥当なのかという反感はやっぱりあるね。 このは5章までが序章のようなものかもしれないね。 「彼(女)が世間的にはなんの価値ある仕事もなしとげなかったからこそ、そしてみずからそ

  • 山深い紀州に暮らす人たち―『紀州』 中上 健次 | 考えるための書評集

    大阪の町からほとんど出ることがなかったが、バイクに乗るようになって紀州の山や海岸にもたくさんの人々が暮らしていることを知った。大阪の人間からすれば紀伊半島には山しかないという印象である。町中の暮らしとは違うそこに住む人はどのような暮らしや仕事をしているのか、そういう興味がわく。 ▲熊野川に暮らす集落 中上健次は新宮の出身で、小説の舞台も熊野をおおく選んでいるようで、このは77年からの半年間、紀州を旅したルポタージュである。 わたしとしては紀州の人たちがどのような仕事や暮らしをしてきたのかに興味をもったのだが、中上健次はそういう話を現地の人に聞き込みながら、問題意識の根にあるのは部落差別の問題である。わたしはこういう問題にはつっこみたくないと思う。 紀州というのは自然の景色がすばらしい。ほとんど自然がおおう山中や海岸のなかで人々はどのように暮らしてきたのか。わたしにあるのはそういうぼんや

    nagayama
    nagayama 2012/10/22
  • 村にすぐれた書き手がいれば―『わが住む村』 山川 菊栄 | 考えるための書評集

    神奈川県藤沢市村岡村の江戸から昭和にかけての生活史をしるした書物で、自分が見知った土地であるともっと愛着がわいた書物になっただろう。ある土地にこのようなすぐれた書き手がいれば、歴史や暮らしがいきいきと書き残された幸運をうらやましく思う。 藤沢市は鎌倉や茅ヶ崎にはさまれた町で、東海道も走っており、運助とよばれる荷物担ぎがたくさんいて百姓もえずに小遣い稼ぎをした。お金が稼げれば、賭場だ、焼酎だでどこでも寝てしまうか、喧嘩だ。人が死んでもどこでもかまわず埋める。どうして死んだ、だれが死んだなんて調べない。街道筋は野垂れ死に死体が埋まっている。 明治19年には東海道線の汽車がのびてくるのだが、地元の人は大反対。宿場町にもってこられてはたいへんだと、停車場は家一軒ない桃畑のまんなかにもっていかれた。でも駅は新開地として発達し、宿場は繁栄からおいておかれた。地方でも駅は町から離れた遠い野原にぽつんと

    nagayama
    nagayama 2012/10/22
  • 『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』 ハンス・アビング | 考えるための書評集

    金と芸術について考えた、ほかに類書が見当たらないという点で私の「GREAT BOOKS」におしたいと思う。 書では芸術家の多くは貧乏なのになぜ多くの人たちはアーティストになろうとするのかということが問われている。また芸術はなにかということも、経済学的・社会学的に問われていて、この考察もたいへん刺激に富んでいる。 芸術って崇拝されて頭上に飾られているものだが、いったいそれはなんなのかと問えば、まったくわけのわからないものに化してしまう。われわれは漠然とこれは芸術性が高いだとか、これは商業主義だといって軽蔑したりするが、そのような私たちの価値基準ってなにによって判断されているのだろうか。私たちはどうやら芸術の基準はぼんやりと知っているようなのだが、それがなんなのかよくわからないといったところが正直なところではないだろうか。言葉や概念で明確にその意味を告げることはできないのである。 芸術書関連

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