ニギハヤヒの弥生語による解読 弥生語から、「ニギハヤヒ」を解読します。 まず、ニギは本来はニキ、これは、ニニギ(本来はニニキ)のもじりです。 皇孫、ニニギの尊にあやかるためだと思われます。 「先代旧事本義」(せんだいくじほんぎ、620年作)という書は、もともと、それより後世の日本書紀(720年)や古語拾遺(こごしゅうい、807年)からの引用があることがバレている以上、当然、こういう憶測は出てきます。 ではその一音一義の弥生語の意味はいかに。 ニ キ (niu) (ki) (秩序体) (際立った)→きわめて優れた存在という意味になります。 これに、甕速日(ミカハヤヒ)、熯速日(ヒハヤヒ)の速日(ハヤヒ)の修飾的接尾語を加えた造語だと思います。 ハヤヒとは、パヤピ、ですから pa ya piu (力あふれる) (意志) よって、ニギハヤヒ、の意味は「きわめて優
ニギハヤヒという天孫の正体 さて、『旧事本紀』については、まず第一には、その中の「一二三の祝詞」が「天津祝詞の太祝詞」にあたるという主張がありますが、果たしてそういえるかどうかということ。 もう一点は、「ニギハヤヒ、別名、天照国照彦天火明命(あめのほあかりのみこと)」という天孫の正体についての弥生語による解明です。 おもしろそうではないですか。 「一二三の祝詞」の方は少し長くなるので、「アメノホアカリ」の方から片づけていきたいと思います。 「天火明櫛玉饒速日(あめのほあかりくしたまにぎはやひ)」という天孫は、日本書紀では饒速日命(にぎはやひのみこと)、古事記では邇藝速日命と表記されています。 先代旧事本紀では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と称しています。 名前の「天照国照」「火明(ほあかり)」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である、とウィキペディアにありましたが、弥生語の分析
「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の中の「一二三(ひふみ)の祝詞ひふみ(のりと)」を「天津祝詞の太祝詞」という説 この「先代旧事本紀」について、宣長は『うひ山ふみ』の中で次のように言っています。 「道を知るためには第一に『古事記』である。神典は、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』を昔から、三部の書と言って、その中でも研究したり読んだりするのは『日本書紀』が中心で、次が『先代旧事本紀』、これは聖徳太子の御撰であるとして尊び、『古事記』はあまり重視されず、特にこの本に注目する人もいなかった。 それが少し前からやっと『先代旧事本紀』は偽書(ぎしょ、本物をよそおったニセ物の本)だということになり、『古事記』が注目されるようになった。 これは、まったく私の先生・賀茂真淵によって学問が開けてきたおかげである。」 ようするに、宣長は、旧事本紀を、偽りの書、だと結論付けています。 少し前の水戸
「トホカミヱヒタメ」とは何か? もっとも、「トホカミヱヒタメ」という言葉は、平安末期の「江家次第」という本に出ている古い言葉ではあります。 亀トには、亀甲そのものを忌火にくべて裂け目を出す時に、その亀甲の上か裏側に、マチガタといわれる縦横のスジの刻み目をいれます。 そのスジの部分に「ト・ホ・カミ・エミ・タメ」の名称がつい ています。 そして、「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて占う。 その五つの線を焼いて、表にあらわれたひび割れの形で吉凶を判断します。 これを太占(ふとまに)と言います。 その亀甲を火にくべて亀裂がはいるまでのあいだ、例の「トホカミエミタメ」の呪言を百千辺も唱えつづけるというのです。 結局、神の御心を知る為の言葉として、この言葉が唱えられていたのでしょう。 この説は、はじめ、<三種の祓詞>と称し、次の三つを、「天津祝詞の大祝詞」としていました。 「吐普加身依身多女
「トホカミエミタメ」という説 このように「天津祝詞の太祝詞」については、宣長説と篤胤説以外でしばしば挙げられるに「トホカミエミタメ」という言葉があります。 篤胤に私淑した国学者に鈴木重胤(すずきしげたね)という人物がいます。 どういう経緯でそう考えたのかわかりませんが、彼は、「吐普加身依身多女(トホカミヱヒタメ)」を天津祓(あまつはらい)とし、「寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリゴンダケン)」を国津祓(くにつはらい)、「祓ひ玉ひ清め給ふ(ハラヒタマヒキヨメタマフ)」を蒼生(あおくさ)祓 として、この三つを「三種の祓詞(はらいし)」と称し、これを彼は「天津祝詞の太祝詞」としたのです。 重胤の書 トホカミエミタメは、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が禊ぎをしたとき実際に唱えたとされる、「遠つ神、恵み賜へ」に由来するというのですが、しかし、実はこれはこの神話の由来を知る者にとっては、あり得ない話な
平田篤胤の「禊祓詞(みそぎはらいし)」を発掘した功績 話を篤胤にもどします。 さて、「天津祝詞の太祝詞」を求めて「大祓詞」を深く研究していった篤胤にとって、そこに入るべき言葉は「祓いの言葉」以外はありえない、と、まず着想したはずです。 そしてその着想は、確かに的を得ています。 天津祝詞を唱えれば、一切の罪という罪、けがれというけがれが祓われる、となれば、「天津祝詞の太祝詞」とは、「祓いのための言葉」以外にはありえない、と考えるのは当然だからです。 そこで篤胤は、その「祓いの祝詞」を探し求めて、伯家神道、伊勢神道、吉田神道、垂加神道をはじめ、各有力神社に伝わるありとあらゆる文献を調査していったようです。 ついでに申し上げますと、私の家が(鹿島神宮社家<しゃけ、代々その神社にお仕えしている家>第31代家枝神職(けしがみしょく)だったせいか、私の家にも平田篤胤からの鹿島神宮に関する問い合わせの書
「秘伝の天津祝詞の太祝詞はあった」とする篤胤(あつたね)説 さて、国学者の中には、「秘伝の天津祝詞の太祝詞」は実はあったのではないか、考える人びとは少なからずいたのです。 そりゃそうでしょう。 宣長説を聞いても、なんか腑に落ちず、なんとなくモヤモヤしておられる人は多かったと思います。 第一に、大祓詞自体が天津祝詞の太祝詞だ、と考える宣長説が変だと思えるのは、後段で「かく宣らば」と言っていることです。 この「かく宣らば」の「かく」に、どうしても引っかかるからです。 前段の内容に「天津祝詞の太祝詞」に該当するものは見当たらないからです。 前段は「どのようにしてわが国はできたのか」という建国の次第を神話的に述べた後に、人々が生きていく上には天津罪(あまつつみ、縦の神に対する罪)・国津罪(くにつつみ、横の対人、対物に対する罪)がどうしても出てくるので、これを祓う儀式として天津金木(かなき)や天津菅
大祓詞後段 前回に引き続き、「大祓詞後段」を記します。 此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて かくのらば あまつかみはあめのいはとをおしひらきて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ あまのやへぐもをいづのちわきにちわきて きこしめさむ 國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 くにつかみはたかやまのすえ ひきやまのすえにのぼりまして たかやまのいぼり 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば ひきやまのいぼりをかきわけてきこしめさむ かくきこしめしてば 罪と云ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く つみといふつみはあらじと しなどのかぜのあめのやへぐもをふきはなつことのごとく 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き拂ふ事の如く あしたのみぎり ゆふべのみぎりを あさかぜゆふかぜのふきはらふことのごとく 大津邊に居る大船を 舳解き
真実の「天津祝詞の太祝詞(あまつのりとのふとのりと)」を求めて 仏教に、般若心経(はんにゃしんぎょう)というお経があります。 多くの人が聞いたことがある、名前だけは知っている、と答えられると思います。 そこに次のようなことが書かれています。 ある日ある時、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)というえらいお坊さんが、いつものように「悟りに至る智慧」の行(ぎょう)ぎょうをしていると、その日、突然に天から閃き(ひらめき)が下りてきて「目に見えるこの世はすべて何の実体もなく夢幻(ゆめまぼろし)の映画である」と実感する悟りを得ると同時にこの世の一切の苦しみや災難を消滅させる不思議な悟りの呪文を授かったというのです。 その悟りの呪文は、「度一切苦厄(どいっさいくやく、すなわち一切の苦しみや災難を解決することができ)」また「能除一切苦(のうじょいっさいくやく、つまり一切の苦しみをよく取り除くことができる)」と
秋篠宮殿下の大嘗祭への発言が話題になる理由 そもそも大嘗祭(だいじょうさい)ってどんなお祭りなのか、ということですが、これを説明するには、新嘗祭(にいなめさい)というものを知る必要があります。 わが日本では、お米を始め五つの穀物(こくもつ)は、弥生の大昔から、食べ物の中心になっています。 その五穀(ごこく)の新穀(しんこく、新しい穀物)を天皇自らが天地の神々にお供えし共に食してその収穫を感謝し併(あわ)せて世の平安を祈るお祭りを昔は「新嘗祭(しんじょうさい)」と言いました。 その新嘗祭までは新米を口にしないという風習が今でも残っているところがあり、それほどこのお祭を神聖視していました。 昔から11月23に行われていましたが、終戦以後「勤労感謝の日」として受け継いでいます。 その昔の新嘗祭を新しい天皇の即位の年に一代一度の新嘗祭をあらためて「大嘗祭」と呼んでいます。 これを宗教色が強いので政
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