情報技術の発達等により、「規律訓練型」の(権力を求める)社会から、「環境管理型」の(権力を求める)社会になった。そうした「新しい社会」では、「アーキテクチャ」、すなわち社会的に埋め込まれた様々な「コード」の「設計」如何によって、人々を特定の仕方へとコントロールする匿名的な権力が肥大化しうる一方、「人間らしさ」の概念が変容しつつある。そこでは人々が「人間らしく」振舞わなくても、相応に社会が駆動することが期待されるようになり、実際人々は「思考」をシステムに委ね、ますますエコーチェンバーに閉じこもるようになっている――。 「情報思想」について議論する場に参加すると、こうした「物語」を前提化して語りかけてくる人にしばしば遭遇する。だが最近になって、こうした理解は非常にクリアなものである反面、多くの現実を捨象してしまうという思いを強くしている。初期段階の仮説としては有効だったかもしれないが、少なくと
今は亡き『へるめす』という岩波の雑誌に書いた藤子・F・不二雄氏の追悼文をひょんなことで発掘した。掲載されたのは1997年3月号、書いたのは、ファイルのタイムスタンプによると、その前年の12月らしい。ちょうど12年前、まだUCバークレーではなくコロンビア大学にvisitingで行こうと思っていた頃だ。いかにも若書きというか、よくわけのわからない怒りに駆られて書き殴った文章だが、本になることもありえないと思うので、せっかくだからここに載せておく。 ジョン・レノンが狂人に殺されたとき、オノ・ヨーコが日本の新聞の一面全部を買い取って発信したステートメントのなかに、ジョンの死について書くことで日銭を稼ぐ人々を責めはしない、という趣旨の一節があった。それを読んだときの穏やかな感動に忠実であろうとすれば、つい最近亡くなったひとりのマンガ家にかこつけて撒き散らされたみすぼらしい言葉どもに対しても、静かに
タイトルは釣りです、って書きたいけど、どうもそうじゃないみたいなところが残念です、というお話。 仏教って知られていないよね 長い引用になってしまったが、1980年代後半に『法華経』が釈尊没後初期にまとめられたと信じ込んでいた人がおり、しかもそれが相当な知識人だったことに私も衝撃を受けている。 http://d.hatena.ne.jp/touryuuuan/20090201#1233482775 私もコーヒーを噴きました*1。いやあまりの不意打ちに噎せておぼれかけましたよ。ウェブ閲覧中の飲食には今後気をつけようと思いました*2。 『続・東龍庵雑事記』からの引用を続けます。 ただ、人文系ですら仏教史の知識はかなり仏教関係者以外は良く知らないものだったので、一概に中山氏・勝間女史を責められぬ所もあると思う。 これはその通りです。ご理解ありがとうございます。上に引用した誤解が噴飯物だというのを私
母乳育児検証の原稿をまとめていて、そっちの書誌事項の確認とか、雑誌の掲載号数やページの確認とかを細々やっていて、もう少しで載せられるからいいやー、と思っていると、どんどん更新が間遠になるので、一件だけ。 先日、っつっても、だいぶ前なんだけど、毎日かあさんのサイトで、PTAについてどう思うか、みたいな、意見募集があったのね。で、これに、いろいろコメントが寄せられてたんだけど・・・。ちなみに、あたしは、回ってくればやるさと思ってるくらいで、積極的にやろうとも思ってないし、どうしてもやだ、と思ってるわけでもないの。で、まあ、寄せられたコメントのなかには、働くお母さんたちから、平日の昼間は勘弁してほしいとか、もうちょっとシステム化できないのか(これは激しく同意!)とか、いろいろ意見が寄せられつつ、専業主婦のお母さんたちからも、こちらも介護や何やかやで忙しい(だよねぇ、これ、仕事で働いてるよりキツい
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